環状線

アイドルとヲタの関係について。卒論でこんなことを書いた。
「ここで奇妙な循環があることに注目したい。自らが従う規範や行動を規定するものとして「アイドル世界」を作り上げようとすること、つまりアイドルの情報を収集し、グッズを集め、アイドルに近づこうとする行為は、その行為に耽溺することでさしあたって日々をどう過ごすかの迷いは解消するという意味において、すでに「アイドル世界」から規定された行為のように見える。このように、「アイドル世界」を求めようとすればするほど、そのこと自体が規定された行為のように現れる連鎖の中で、モーヲタはさらに「アイドル世界」に近づくべく際限なくヲタの活動を続けるのだ。」(卒論『アイドル「オタク」の宗教性』第3章より)

http://d.hatena.ne.jp/onoya/20060508/1147109571 では簡単にこう書きました。
「「どうやって生きていったらいいか教えてください」と思って一生懸命アイドル世界にのめりこんでいく生活そのものが、アイドル世界からすれば「そう生きろ」という答えなのだ。」


ところで、最近読んだ本で、大澤真幸も同様のことを書いていた。書かれたのはだいぶ昔の話だが。
「カリスマは、従属者の承認によってその妥当性を獲得しなくてはならないが、ところがその同じ承認は、カリスマに由来するところの判断によって、一個の義務として指定されているのである。だから、従属者の承認の操作は、カリスマを経由することで、自身の規範的な妥当性そのものへと回帰してしまう。」(大澤真幸「逆説の合理性」『恋愛の不可能性について』より)


要は、アイドル現象は我々ヲタが作り上げるものではあるのだが、そのヲタ活動はアイドル現象によって作られているかのようにも映る、ということ。ここでの能動性と受動性。それが、ヲタの相反する反応を呼び起こしていることは間違いない。
ところで、大澤はこの矛盾――ここではヲタ活動を原因としてアイドル世界という結果があるように思われる一方で、アイドル世界を原因としてヲタ活動という結果が生まれているのではないかという因果関係の循環――への認知を契機として、「抽象的な超越性が析出される蓋然性が生ずる」としている。アイドル世界が、我々有限の存在が作ったということにおいて世界内の存在としてあるならば、世界内の他の存在によって相対化できてしまうということにおいてアイドル世界は超越性を失う、という危機から逃れるためには、アイドル概念を抽象化して世界の外部に追いやるしかない、というわけである。そして、このアイドル概念の抽象化とは、つまりアニメ化のことではないのか?
もちろんアニメ化する、というのは人間の行為であるから、アニメキャラも世界内存在と言ってよいのだが、明らかに生身の人間のアイドルよりも抽象性が強い。少なくとも、人間ではないという点において生身のアイドルよりも超越的他者として存在しやすいように思われる(もちろんアニメキャラを相対化することはいくらでもできるが、生身の人間と違って「年をとらない」「スキャンダルがない」というのは決定的な超越性として現れる)。アイドルが我々の欲望を満たす商品であるとするならば、年もとらず、恋愛もしないアニメキャラのアイドルを愛でるという行為の方が合理的と言えそうである。そして実際、そういうことが80年代末から90年代初めにかけて起きたわけだ(象徴的なものとして、「芳賀ゆい」というバーチャルアイドルがいる)。ちょうど大澤の「逆説の合理性」が書かれたのも89年、その頃のことである。では、アニメキャラの世界は「理想の世界」か?
大澤は、最後の方で「合理化が直線的に推進されるわけではなく、むしろ、十分に合理化した一九世紀的な精神のあとには、その破局が訪れようとしているかのようにみえる、という事実を示唆したかっただけである。」と記している。そう、例えばアニメキャラが幅を利かせている時代に、なぜ今さら生身のアイドルとして娘。が現れたのか、ということ。僕はそれになんらかの理想を託している、のかも。もちろん生身のアイドルを存在させるための天秤はなかなかつり合わないのだけれども、そうした営為こそが「人間」である、などと自己保身気味に語りたいのかもしれない。
非合理的にアイドルを愛したい。その裏になんらかの合理もあることを意識しながら。