アイドル論へのメモ

℃-uteコンサートツアー2010春ショッキングLIVE
ダイハツコルテオ仙台公演記念 Zepp Sendai


若い整理番号で、最前近いポジションで見る。といっても、圧力は大したことなし。
帰りの高速バスでメモしたことをとりとめもなくだらだらと書いてみる。



℃-uteメンバーの身体性の対照。
愛理の身体性の希薄さ
→ 汗が少ない・お腹のあたりの皮膚感がぺったり・声が枯れない → その延長線上には初音ミクがあるのか?
舞美の身体性の濃密さ
→ 汗が多い・腹筋・腕の筋肉・声が枯れてしまう
で、なっきぃはというと。 コスプレ・困り顔 …うーむ、やはり希薄な方か?


とはいえ、ぼくらは身体性を求める。その方が「リアル」だから。しかしそうではないリアルを享受する人々が出ている以上、安穏としていられるのか。我々は我々のリアルを正当化、少なくとも、守ることができるのか。
完璧なアイドルは、初音ミクに近づくだろう。では、むしろ生身のアイドルはその「完璧でなさ」をこそ武器とするべきか?しかし、その「完璧でなさ」まで完璧にコントロールされたバーチャルアイドルに、生身のアイドルは勝てるだろうか。それとも、完璧でなさ、以外のなにかがあるのだろうか。生身性、身体性とは何か、という問いが離れない。初音ミクライブに行った人は、「そこに初音ミクがいた」と言う。この偽らざる実感をあなどってはいけない。ここから目をそらしてはいけない。そもそも、「いる」とは何なのか。そこから始めなくてはならない。ライブ中、もしかしたら、愛理はサイボーグなんじゃないか、という問いが一瞬頭をよぎった。そうであっても、なんら問題はないではないか。それとも、問題はあるのか?「いる」とは何か。コミュニケーションの可能性があることだろうか、それであれば、初音ミクはいないことになる。それでは、コミュニケーションの可能性があると信じることだろうか。しかしコミュニケーションの可能性があると信じるとはどういうことなのだろう。それは、「いる」からコミュニケーションの可能性があると信じる、という循環論法に陥るのではないか?そういったコミュニケーションへの信用は、次第に、漸進的に構築されるものか。その現場での演者と受け手の関係性、やり取りの中で構築されるものなのか。
コミュニケーションの可能性を信じさせるものは何か、なんらか、人または生物の形をした身体、また、声であろうか。そうした諸々が揃う――つまりは、日常のコミュニケーション、生身対生身(1対1)の状態に近いほどコミュニケーションの可能性は信じられるのか。つまり、それを規範的なモデルとしたような、コミュニケーション可能性の分類・階層化がありうるか。そうすると、マイナーアイドルの握手会か、キャバクラにでも行けということになるのか。



ところで、コミュニケーションの可能性があることと、コミュニケーションの可能性があると信じることに、何か差異があったのだったろうか。コミュニケーションは、常に伝わったと信じることによってのみ成立しているのではなかったか?
であるならば、ぼくは間違いなく、なっきぃから視線をもらったのである。
℃-uteはライブ終盤で、ボールを観客席に投げ込んだのだったが、それは、コミュニケーションが成立しているよ、という比喩なのかもしれない。その行為をも利用して、我々は℃-uteとファンの平和な相互作用を信じることだろう。それと同様の意味で、初音ミクのライブで初音ミクがいたと言う人にとっては、初音ミクはいたのだろうし、初音ミクとコミュニケーションが成立したのだろう。……そんな簡単な話だったろうか?



もし自己と他者の分裂がコミュニケーションの成立を困難(不可能)にしているとするならば、ひとつの解決策は、他者と自己が合致する状況を生み出すことだ。自己と他者が同一のものであれば、齟齬が生じることはないからである。もちろん、そもそもその場合、「コミュニケーション」と言えるのかという問題はあるし、自己と他者が同一であるとはどのようなことなのか。それは論理的ではない領域の話だ。愛がセックスによって伝わると信じられる理由は、セックスの身体的快楽が、自己と他者の境界を融解させる(まさに身体的にも侵犯をするわけだが)からだろう。ライブの熱狂もまた、それと同様に自己と他者の境界を曖昧にするだろう。コミュニケーションは意味の伝達作用のはずなのに、自己と他者が合一するという、意味の世界の埒外のことにおいて、コミュニケーションが成立する?なんとも不思議。
それでも、℃-uteはライブの最後に「ひとつになれました」と言ったのだ。
…うん、ひとつになれました。





露出を高める → 裸に近づけること
コスプレ → 着飾ること
この2つは遠いかという問題
むしろ、どちらも、アイドルとの同一化に機能するのではないか。


露出 → 裸に近いほど、アイドルの存在に近づける気がする。しかしアイドルは全裸ではいけない。それは法的に無理なのではなくて、身体的な差異が我々の同一化の夢を破るから。肌を露出しながらも、女性的身体をアピールしないこと。(アイドルの性器の不在をほのめかす。)性をニュートラルにすることによって同一化を促すこと。 → 参考:性を越境するエロマンガの考察
コスプレ → 中身はない、だから容器を派手に。と同時に、コスプレは我々に同一化を容易にさせる。




アイドルは職業ではない。存在形態のことだ。だから例えば歌手とアイドルを比べることははじめから無理。
アイドルはそれをめぐって人が集まることが大事、だから別にかわいくなくてもいい。特にグループアイドルでは、かわいくないのがいてもいい
アイドルはメディアである。それはあるときは透明に作用し、我々のコミュニケーションを媒介する媒体であることが無意識的に捉えられている(ヲタ芸・爆音)。またあるときはそれに対しての熱狂を呼び起こす。その形式に対する依存を強める。アイドルはいなくてもいい、のではなくて、意識されなくてもよい。かならずしも対象化されている必要がない。(貨幣も、その使用の際にその物質性に関しては我々はほとんど無意識に、透明なものとしているのではないか。しかしそれでいて、あるときはそれそのものへの熱狂も生む)



いずれにしても、ぼくには学問が必要だ。