第9地区

火曜のことだが、映画『第9地区』を見てきた。
だいぶ記憶が薄れてきたが、以下印象(ネタバレ含む)。


ともかく、胸くその悪くなる映画だった。で、ぼくはそういう映画を観たいのだ。
南アフリカヨハネスブルグ上空に突如宇宙船が現れる。そして宇宙へ帰れなくなったエイリアンたちは、「第9地区」と呼ばれる地域に住まわされることになる。この地域は次第にスラム化していく。
エイリアンが現れたことそのものは、この映画では淡々と、あっさりと描かれる。映画の舞台が人種差別の歴史を持つ南アフリカであることが示すように、この映画は相容れない他者への態度というものがひとつのテーマではあろうと思う。
映画の主人公はかけらもいい人間ではない。エイリアンを忌み嫌い、エイリアンの卵に栄養を送る器械を取り外して喜んでいたりもする。ちなみにこのシーンで、エイリアン(の卵)がかわいそう、とぼくは思った。すくなくともエイリアンが、応答可能性のある他者として立ち現れる。それはなぜなんだろうと思う。「他者」の条件とは何か。先日のエントリでも書いた、「いる」とはどういうことだろうか、ということ。人間に似ていること、動くこと、ある程度の大きさがあること、自分たちと同じと思わせる何かがあること?
主人公の身体は、あることがきっかけでエイリアン化していく。彼を金儲けの手段にしようとする組織にとって、彼はもはや他者ですらなく、金銭に換算されるモノでしかない。
主人公はあるエイリアンに助けを求め、人間の身体に戻る方法を模索する。しかし、そのエイリアンと友情やら絆やらが芽生えるということではなく、徹底的に利害関係の下で主人公は動いているように見える。一度は、そのエイリアンを見捨てようとまでするが、最後はエイリアンを逃がすために、自分が軍隊と戦うことを選択する。ここも決して美しくはない。愛とか友情とか、ではなくて、ただなんかそう気が向いたから、という印象。映画『ディア・ドクター』でも感じたが、人間の不条理、決して人間は、常に理性的に、または利害関係に基づいて、的確に適切に強い自覚の下で判断をして行動するわけではない。限られた環境・時間の中で、人は動くのであるから。それでも結果的に、主人公はエイリアンを助けた。その一瞬に、彼らは何かを分かり合っただろうか?
映画終わりに、花を模した飾りが主人公の妻の家の前に置かれ、それが、おそらくはもう完全にエイリアン化してしまった主人公からの贈り物であろうことがほのめかされる。果たして、妻には伝わったのだろうか?
そう簡単に、違う立場の「他者」とは分かり合えないし、普通分かろうともしないかもしれない。しかしそこにはいつでも架橋されるチャンスはあるのだろう。ただその架橋が決して常に美しいものでもない。ただ自らのせっぱつまった事情がゆえ、であるかもしれないし、そこにお互いの利害関係の打算があるかもしれない。それでもそこで何かを信じてもよいだろう。そしてまた、何も信じなくてもよいのだろう。