深層

Parfaitは、今回動員目標を達成することができなかった。けれども、解散も脱退もしない。解散商法は使わない。それはいいこと。というか、そういうことはしません、という空気を、もともと持っているユニット(事務所)である。
集客力は少しずつ上がっていて、楽しいライブができている喜びと、動員目標には届かず、まだまだ上を目指すには道半ばであるという悔しさと。ライブの最後のMCでは、いろいろな思いが伝わってきた。



小池さんと西山姉が一緒に活動していたアイドルグループが、デビュー前に8人から7人になっていて、最後には2人だけになったという話があった。そしてそれと比べてParfaitは…という話になったときに、実は一人やめているんだけど、いや、もともとずっとこの4人だった、みたいな設定にステージ上の4人が話を収めていく。
アイドルに限らないけれども、このメンバーじゃなかったら考えられない、というような、運命性の感覚というのが生まれるのは幸福なことだ。それはファンにとっても同様である(というかファンにとってこそ重要な問題かもしれない)。一方で、その運命性は恣意的なものでもあって、絶対的でありながら、単なる偶然である。
たとえば「ももいろクローバーZ」が、あの5人でなければありえない、と思うファンがいるだろう一方で、早見あかりが在籍していた6人の時を懐かしく思うファンもいるだろうし、さらに昔の体制を思い出す人もいるだろう。
Parfaitがこの4人であることの意味を見出せるなら、そこに「運命」という言葉を乗せていいと思う。それが外野から見て、数多あるアイドルグループのうちの一つに過ぎないとしても。「運命」という言葉は本来理屈によって説明されるべきではないが、理屈によって補強されるべきであるなら、先述のような4人の強みとバランスのよさを挙げてもいいだろう。
いずれにしても、それが「運命」たりえるには、彼女たちの確信と、それを見守るファンという証人と、そしてこれから紡がれる未来が必要になる。だから、大事なのはこれからだ、ということは、メンバーの方が百も承知である。



工藤さんが、MCでファンに向けて、みんなを愛していると言い、みんなと結婚する、というようなことを言う。とても大事な問題をはらんでいる。愛、という言葉はとても多義的であって難しい。たしかに、アイドル現場に「愛」は溢れすぎていて、かえってもうその言葉が意味をなさなくなっているということはある。「結婚」という言葉は、その点で、詩的な用法としてはとてもよいように思われる。つまり、愛という言葉の強調表現として、「結婚」があると解釈できる。
(しかし一方で、「結婚」は定義上は「愛」を必要としない制度であるから、ファンとアイドルの関係を「結婚」という言葉で表現することには、別の解釈も可能と思われる。でも工藤さんはちゃんと「愛している」と言っているから、別の解釈については措いておくことにする。)
そういえば、ずいぶん前に「アイドルと結婚、およびアイドルの期間限定性について」という文章を書いたことがあった(http://d.hatena.ne.jp/onoya/20141026/1414304493)。そこでもいろいろ書いたけれども、結局のところ、女性アイドルは結婚してしまえば、どうしてもアイドルを続けていくことが難しいという現状がある。
この意味では、女性アイドルにおいて結婚はタブーとも言える。であるならば、その言葉をあえて口にすることで、アイドル対ファンの1対多の結婚という、フィクションの世界に我々を誘う振る舞いとも取れる。少なくとも、ファンと結婚結婚言っているアイドルが、すぐさまアイドルを辞めるとかいうことは考えにくい。だから、Parfaitでずっとやっていくぜ、Parfaitのファンと一緒に上を目指すぜ、という宣言としての「結婚」とも取れるのだった。



西山妹は、「よく中身空っぽって言われる」というようなことを言っていた。誰にどういう文脈で言われているのかは知らない。ただ、「かわいくて中身が空っぽ」というのは、ファンの暴力的な欲望の典型であり、興味深く思う。お人形みたい、とか、やらされている、とかいう主体性のなさ、意思のなさというのは、旧来的なアイドルのステレオタイプでもある。
たしかに、西山妹は、ライブを見る限りParfaitの他の3人のメンバーに比べて言動が静かな印象がある。そんなに我を出して、自己主張を押し出してくるタイプに見えない。
一方で、Twitterに上げられる西山妹の自撮り画像や動画は、あざといまでにかわいらしさを演出しているように見える。そもそも、ライブで流す自己紹介ビデオにおいて、顔に自信があると表明しているのだから、自分の価値について強く自覚している。(自分が驚いたのは、このビデオによって、Parfaitのグループとしても、西山妹が一番かわいいという体で行きますよ、という表明をしていることだ。)
だから、最も自分がぞくぞくするのは、「よく中身空っぽって言われる」と話すことだったり、他の3人よりも大人しめであることだったりが、すべて自覚的な、戦略的な振舞いなのではないか、ということだ。最後のMC、自分の実力で目指すところへたどり着く、という宣言に、強い意志を見た。
現状、フォロワーの数を見ても、新規のファンを獲得するキーマンになるのは西山妹だと思っている。だからこそ、彼女には「かわいいのプロ」になっていってほしい。



動員目標が果たされずに、悔し泣きするメンバーがいる中で、西山姉は葛藤を抱えながらも、それでもこのライブの動員をポジティブに評価しようとしていた。そこに、リーダーとしての葛藤が読み取れた。
大体、アイドルグループのリーダーとは、損な役回りであることが多い。グループをまとめたり、バランスを考えたり、MCでも司会的な立ち位置だったり、グループとしての意見表明をしたりと、いろいろなことができないといけない。ライブを整える役回り。
イメージとしては、たとえばサッカーで言えば、西山妹と工藤さんがFWで、小池さんが上がりめのMFで、西山姉は中盤の底かDFといった感じになる。後ろで頑張っているおかげで、ゲームが落ち着く。いや実際には、だいぶテンパってたり、ミスしたりもするのだけど、その存在がグループを何か安定させている、という感じはあるよなあ。



はい、とりとめもなく書いてしまいました。
いや、Parfaitは、いろいろと粗もあるけれど、魅力的なユニットだと思います。何よりやっぱり、楽しそうだもんね。
完璧(Parfait)なアイドルを目指すそのプロセスを、応援していきたいと思います。

(…先日も書きましたが、Parfaitのライブ、ファン文化的にはいきなり行っても楽しめると思います。そういう意味でアクセスはしやすいんですが、物販とかチケットシステムとかファンクラブシステム、今のままだと分かりづらいよ…。その点での敷居が高くなってしまうと、もったいないような。これは事務所さんお願いしますとしか言いようがないことですが。)

中層

Parfaitの4人は、一人一人がアイドルとしてやっていくのに十分な総合力を持っている(失礼な言い方をすれば、「足切り」されるような弱点を持ったメンバーがいないように見える)。一方で、先述したようにそれぞれ強みを持っている。


「動」、「歌」、「顔」、「必死感」と言ったが、これは現代のアイドルの魅力の大きな四要素だと思われる。
「動」…ダンスも含めて、身体の躍動とか、表情の変化とか。近年アイドルアニメも含め、ダンスの重要性については言うまでもない。それは見て楽しいこともあるが、見る側にも身体の躍動を促したりもする。小池さんの身体の躍動には、人を動かす、また心を弾ませるような魅力を感じる。人を元気にするためには、アイドルは元気で、活力にあふれていなければならない。
「歌」…生歌にこだわるParfaitは、今回生バンドでのライブを行った。アイドルが生バンドでライブをやることは、決して多くはないと思う。それだけ、パフォーマンスに力を入れたいという気持ちがある。中でも、工藤さんの歌唱力は、Parfait全体のパフォーマンスの中で、強い説得力を持たせている。でも、もっともっとうまくなれると思います。圧倒的な歌唱力を身につけてください。
「顔」…なんだかんだと言って、結局アイドルの入口は顔である。これは否定しようがない。それは、メンバーの中で西山妹が一人だけTwitterのフォロワー数が1万を超えていることからも分かる。ただし、かわいさ・美しさは顔のみによって表れるのではもちろんない。ソロコーナーでの歌や動きを含めて、西山妹よ、やっぱりかわいいぞ。いや、なんというか、個人的には絶妙な歌唱力だと思っています。下手じゃないけど、うますぎない。
「必死感」…西山姉は、いろいろ考えている、という感じがする。考えすぎて時に失敗する、という感じもする。ソロで「めざせポケモンマスター」をチョイスしちゃうのも、少しネタっぽく、でも真剣に歌って、でも結局なんかバシッと決まっている感じもしない、という感じがみんなから愛されている感じがする。頑張ってる感、伝わってます。でも、寸劇で男役やってる時の方が、つまり過剰な演劇空間の方が、体の動きに迷いがない感じがする。これは彼女がオタクであることと関係があるだろうか。
ともかく、こうして見ると、4人のバランスはとてもよいと思うわけです。

表層

ワンマンのオープニングで、自己紹介ビデオが流れました。
それぞれが、メンバーのキャラクターを端的に表してくれて、とても分かりやすいです。
自分の自信があるところとして、小池舞さんは「声が大きい」、工藤聖奈さんは「食べること」、西山乃利子さんは「顔」、西山野園美さんは「笑い」、と言っていました。
「食べること」以外は、ライブを通して、その魅力を存分に感じることができました。


あらためてライブを通じて感じるそれぞれのメンバーの個性。
小池さんは「動」です。元気に動き回ること、感情の揺れ動き(泣いちゃう)とかも含めて。
工藤さんは「歌」です。声の力の強さと、うまさと。
西山妹はたしかに「顔」ですが、もう少し言えば、どのようにかわいく見せるか、という部分のうまさでしょうか。
西山姉は「笑い」もそうだけれど、ほほえましい「必死感」。なんか、頑張ってる感。たとえ一推しじゃなかったとしても、なんか応援したくなる感、みたいの。


新しい衣装も、とてもかわいらしく、よかったです。
動員目標は果たせませんでしたが、ライブは楽しくて、その場にいた人はみんな幸せだったのではと思います。総合力のあるユニットだと思うので、まだまだ上を目指して頑張ってほしいですし、応援していきたいと思います。

Parfaitワンマンと、あとアイドル論。

アイドルユニット「Parfait」のセカンドワンマンライブに行ってきました。
感想を3つに分けて書いていきたいと思います。
(俄かファンがライブを見た限りで書いたことですので、もし何か間違いがあれば教えて下さい。)
先に進むにつれて、めんどくさいことを書きますので、ちょうどいいところで切り上げていただければと。

Parfait、あるいはアイドルを観ることについて

パフェの仕事でアイドルグループ「Parfait」とご縁があって、Parfait(以下パルフェ)が劇的な形でTIF出演を決めたので、今回のお目当てはパルフェ。でなければ、今回は無料のスマイルガーデンにずっといたかもしれない。
ドールファクトリー、ドリームステージ、グリーティングエリアの無料握手会と、パルフェ現場を3つまわして、思ったところを。(といっても具体的なことを全く書かない。)


2001年からアイドル現場を見てきて、いまだに、何でライブを見ることが、アイドルの躍動を見ることが快の感情を呼び起こすのか、よく分からないでいる。もっと言えば、なぜアイドルを好きであるのかということについて、よく分からないままで、もう15年以上もアイドルを見てきている。
たとえばいま自分は、パルフェというグループの何がいいかということについて、それなりに理由を説明することができる。けれども、その理由が他のグループに当てはまらないということはなくて、どの理由もどこかのグループに当てはまるのであって、パルフェが何かの点(ルックス、歌唱力、ダンス、etc…)で唯一性を持っているとは言い難い。
あるいはアイドルを「総合的」に評価することができるか、について考えてみる。しかし、スポーツ選手のドラフトのように、勝敗が重要な問題となる競技の世界において用いられるような客観的な指標に基づいて、ぼくらはアイドルを序列づけるわけでは決してない。
思えば、アイドルをいいと思うとか、好きと思うということについて、我々は根拠をもって行うということは普通なくて、根拠は後からついてくる、という感じがする。しかし、それも何だかあやしい根拠だったりして、結局なんとなく好きだ、としか言いようがなかったりする。好きな理由はともかく、好きなんだからしょうがない、というような感じになる。


ところで、アイドルを好きな理由を挙げると、それはアイドルを褒めているというよりは貶しているような内容だったりすることがある。要は、アイドルの未熟な側面を好きになるケースで、それは応援したい気持ちの元になったりもする。
ぼくがパルフェを好きだと思う理由を無理に言語化してみるならば、それは「商品化されていない感じがする」という何ともあやしげな理由である。言い方を変えれば、洗練されていない感じ、みたいなことでもある。うーん、褒めていない感じがする。


パルフェはコンセプトとか設定とかが完璧に作り込まれている感じがしない。「パルフェ」なのに全然完璧じゃない。(その点で言うとスイーツのパフェも完璧なものなどほとんどないのだけど…)
でも、西山姉をはじめ、メンバー全員の気合を感じるステージで、また楽しそうで、見ていてとても快い気分になる。


…と言いながら、ぼくは基本的にアイドルの気持ちをどうこう言うことに強い抵抗のある人間である。たとえばアイドルのインタビュー記事を読んでアイドルの本音を知ることができるとか、ステージを見てアイドルの性格を読み取れるとかいうことを信じていない。
逆に言えば、見えるものが全てでいいと思っていて、たとえばアイドルが笑顔である時に、内心本当は何を考えているか、などということに興味はない。


にもかかわらず、「気合を感じる」とか「楽しそう」とか言ってしまっているのはどういうことか。結局、自分も読み取ろうとしているじゃん、ということを思う。
ライブや舞台といった表現活動は、計算・計画されたものをはみ出るものこそが見ものだったりする。僕らは歌うアイドルの曲を聞きたいというのももちろんあるが、歌い踊るアイドルのその振る舞いから内面を自然と推し量ってしまうのだ。


あと、あれですね、パルフェの現場は、ファンの雰囲気が閉鎖的でなくていいですね、と思います。
アイドルのファンの規模が、100人、1000人、10000人となるにつれて、ファン文化も変わっていかざるを得ない。逆の言い方をすると、そういった文化の広がり(=ファン層の広がり)を許容できるような現場であったり、アイドルの表現でなければ、規模を大きくできないということでもあり。いわゆる内輪感が出過ぎると、そこで停滞することになりますが、そういう嫌な感じがないですね。
あんまり、アイドルがどうやったら売れるか、みたいなことを書いていくのは好きではないので、心の中でいろいろ考えながらパルフェを応援したいと思います。
(ひとつだけメンバーにお願い。Parfaitを名乗るなら、もっとパフェを食べたらいいのでは…?と都合のいいことを言っておきます。)

TIF2017最終日の8月6日に行ってきました。一週間以上たってから遅すぎる更新。
TIFって何となく知り合いには会えるもので、知り合い2人に、「アイドルにまだ興味があるのか」というようなことを言われる。実際、パフェの方の活動がほとんどになってしまって、TIFに出ているアイドルグループの7割くらいはよく分かっていない状況になってしまった。
何というか、最近はパフェの方での知名度が明らかに優ってしまって、アイドルファンだったこと自体があまり知られていないような始末である。

Negicco「愛は光」

一週間くらい前にYouTubeにアップされたNegiccoの「愛は光」MV。
Twitterのタイムライン上で絶賛されていて、なんだか逆にいまひとつ気が乗らずに見ないまま(天邪鬼)、なぜか早起きしてしまったこんな朝にふと思い出して見てみる。ついでに、感想なども書いてしまおうかなどと。
もういろんな人が感想をつぶやいていて、同じことを言うのを承知でぐだぐだと書いてみます。(歌詞が間違ってたらすみません。)


アイドル側から、アイドルとファンの関係性を歌う時、しらじらしくわざとらしく、つまりは演劇的になってしまいがちに思われる。それがしかし、結成15年の(決して順調な道のりでここまでたどり着いたグループではない)Negiccoという存在によって、自然に、そして説得的になっているというのはもちろんある。


歌詞に登場する「サイリウム」「ペンライト」は、歌手とファンをつなぐ重要なツールである。
「まるで小さな銀河」であるライブ空間で、「サイリウム」は「ひしめき合う星の群れ」に見えて「すてき」。
「ダイヤモンドもガラスのビーズも光があるから輝くの」。
アイドルは、光を照らしてくれるファンがいるからこそ輝く、という強いメッセージである。(ここであえて「ダイヤモンド」と「ガラスのビーズ」という客観的価値に大きな差のある二者を持ち出すのが何とも秀逸な気がしている。)


ここで、「私が月なら 太陽はあなたよ」という歌詞が面白い。
ファンからすれば、自ら輝いているのはアイドルであって、アイドルが星(太陽)であるはずだ。
ところが、アイドルからすれば、ファンの方こそが光を照らしてくれる太陽である、というのだ。
これはファンにとってはうれしい(が、しかしファンにあまりに都合がよすぎるとも言える)。
この少し後に、「私だって太陽 あなたを照らしたい」という歌詞が来るのだが、この歌詞(「アイドル=太陽」)の方が「ファン=太陽」の歌詞より後ろに来るというのが面白いところ。


2点指摘しておきたいことがある。
①、アイドルがアイドルの自己言及的な歌詞の中で、アイドルとファンを入れ替え可能なもの(対等なもの)として歌うことは、やはり現代的という感じがする(現代的というのはここ10年くらいのことを指している)。
自己言及的な歌詞は、しばしばパロディや茶化す方向性を取りやすいが、ベタにアイドルとファンの対等な関係を描こうとする。それですべらないのは、Negiccoというグループの歴史のなせる業か。


②、ファンは「ひしめき合う星の群れ」でありながら、それぞれがただ一つの「太陽」でもある。これはアイドル論としてはとても重要なことで、アイドル対ファンは、「1対多」でありながら「1対1」でもある、という矛盾を超えた関係性にある。作詞者が意図したかはともかく、そうした関係性の表現として絶妙である。


ところで、「愛は光」ということについてだけれども、アイドルのライブにおいて、サイリウムの光はファンの愛の表現であって、その意味で「愛は光」となってアイドルのもとへ届く(もちろんこれはもっと普遍的な、与えられる愛は、その人にとっての光(希望)である、というようなメッセージでもある)。
今春に雑誌『装苑』のコラムでも書いた内容だが、ファンの愛が光へと抽象化することはとても大事だと思っている。愛が光という単純なものになってアイドルに届く。せいぜいそこで表せるのは「好き」というシンプルなメッセージであって、ファンそれぞれの、たとえば「恋人にしたい感じの好き」とか「結婚したい」とか「友達のように好き」とかいう差異をとっぱらって一つのものにしてしまう。だからこそ会場が一つになれる、みたいなところがライブにはある。
だから、アイドルにとってはファンは抽象化されていた方が(つまり個々というよりは集団として見えた方が)、ファンの愛を受け取りやすい、という側面もありそうである。遠くから見れば、「小さな銀河」や「ひしめき合う星の群れ」のようで「すてき」だが、果たしてファンのひとりひとりをアイドルは「太陽」として直視することができるのだろうか。…太陽と月というならば、距離が近すぎてもうまくいかないわけで(いやこれはだいぶ意地悪な見方だ)。


最後に、言葉遊び的なことですが。
サビのメロディーの同じ部分に「惜しむことなく」「燃え尽きるその時まで」という歌詞が配置されているのですが、「推し」とか「萌え」(萌えはもうアイドル界隈では死語かもしれませんが)とかのファン目線の用語が掛詞で用いられているのは偶然ではないと思っている。「授かった愛を輝きに変える」と歌う歌詞のそばに、そういったファンのまなざしがある。アイドルとファンの理想的な関係。


10年とか15年とかアイドルをやっていると、ファンの方も同じ歳を取って、生活環境も変わって、同じではいられない(いや別に同じ人もいるだろうけど)。「普通、アイドル10年やってらんない」のであって、そんな中で、アイドルを10年以上やって、ファンも10年以上支えている、それは素晴らしいことだと思う。
気付けば、℃-uteのラストも、嗣永桃子のラストも現場で見ることをしなかったから、自分のアイドルへの思い入れもだいぶ薄まってしまった。ただ、時にこういうMVを見てしまうと、アイドル、というか、愛にまつわる何かについて思いを馳せないわけにはいかない。
アイドルは「太陽」でもあり、「月」でもあるんだったら、「燃え尽き」なくてもいいんじゃないかな。人はアイドルじゃなくなっても、輝き続けられるということを希望にしたい。