∞が描き出す倫理

語り方としては、どうしても加護の件もあって心労がたまってたんだろう、ということになって、ゆっくり休んでね、っていうのには僕ももちろん同意するのだ。
だけど一方で、そういう風に「人間扱い」をすることが本当は嫌なのだ。これは去年の夏に辻がステージから転落したときにも思った。辻が何も心配させないほどに辻であることに安心したい。
辻がファンに心配をかけた時点で、アイドル辻としての権威が落ちるのである。僕は辻が「現実」と「虚構」の交差点に存在すると思いたいし、身体性と記号性がないまぜになったところに現れるアイドルの魅力を愛でたい。
だから、あえて僕は辻の心配をしない。というか、僕は「人間辻」への心配の仕方を知らない。どうしても、生身の人間という感覚をもてないのだ。「急性胃腸炎」と言われても、「食べ過ぎじゃね?」と言って笑うほうが「アイドル辻」への作法としては正しいと思える。


僕が不器用だからか、僕は「人間辻」と「アイドル辻」への倫理を両方自分の中に抱え込むことができない。「アイドル辻」への倫理(上記の図の視線③)は、辻を人間扱いせず、キャラクター(何らか虚構の存在)と見なすこと。不死身の存在であって、年をとらないし、肉体的にも精神的にも傷つくことはない。一方「人間辻」への倫理(視線①)は、辻を生身の人間として扱うこと。過労やストレスを抱えながらも笑顔を絶やさないという過酷な仕事をこなすひとりの人間を想うこと。
ついでに言えば、マスコミが辻から加護の件についてのコメントを必死で引き出そうとする行為はアイドルをひとりの人間へと引きずり落とす行為(視線②)だ。一方「急性胃腸炎」をキャラクターのキャラの表現と捉えてしまうのは、身体性をともなう人間を傷つかないキャラクターかのように扱う暴力的な行為(視線④)だ。
だから、さっきまでの僕の書き方はどうも勘違いである。「アイドル辻」に甘えすぎていました。「辻の奇跡性」に甘えていました。「辻」を愛するんなら、「全部ひっくるめて」愛さなければいけませんね。それくらいのことは、僕は加護の件から学ばなければならないだろう。


僕は今年の目標として、、『「虚構的ベタ視線」(萌え視線)(図中視線③)で倫理を確保していくことができるのかどうか、に見通しをつけること』なんて書いたけれども、そうじゃない。僕はなぜか視線①と視線③を両立させる可能性についてあまり考えていなかったようだ。もちろん同じ瞬間に二つの視線が両立することはありえないのだが、それぞれの視線を適切なタイミングで放てるかということ。昨年からのアイドルの顕著な虚構化で、僕はついつい視線③に過剰に肩入れしてしまったのだけれども、そういう状況だからこそ逆に視線①が重要なのだった。
…長々書いているわりには、当たり前のことしか言っていない気がする。「状況に応じて視線を使い分けろ。」いかにもオタク的な常套句の感がある。でも、僕は、それによるアイドルの権威の失墜を恐れた。だから視線③に自分を駆り立てたのかもしれない。辻を推し、道重を推し、久住がすごいと思った。そうそう、「すごい」と思いたかった自分がいた。
視線①と視線③の両立には、互いの相対化というものが欠かせない。それによって対アイドルの自足した空間が破られてしまうこと、あるいは、現実も虚構のひとつであることがばらされてしまうこと。そんな危うさを基盤として倫理を組み立てる可能性。その相対化とは、つまりメタ的な視線のことで、メタ的な視線②と④が視線①と視線③をつなぐ役割をする。だから視線②と視線④があって初めて「ヲタ道徳」が可能となる。
「現実」と「虚構」を行ったり来たりする螺旋運動の中で倫理を模索する、ということをイメージとして考えてきたが、昨年から採用している「ヲタ視線模式図」で言えば、視線①〜④を行ったり来たりする無限の運動(まさに∞の形となるわけだが)の中でヲタ道徳は成り立つ、ということだ。うん、多分当たり前のことを面倒な言い方をしただけ、かも。
ただ、東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生」での「キャラクター小説」に関する話は、まさにアイドルをめぐる倫理の話でもあるような気がしている。まだ途中までしか読んでないけど。