ガチだから、はい、ここで話はおしまい。

引き続き、ヤンヤンです。AKB48の選抜総選挙開票イベントのレポートが出ています。13thシングルを歌う選抜メンバーをファン投票で決める「総選挙」。その結果を発表するイベントです。
いまさらですが、それについて書きます。
(AKBについては最近の現場経験がないので、なにか間違いがあればご指摘ください。)

開票イベント「神様に誓ってガチです」。AKBというアイドル現象を特徴づけるイベント名だと思われる。
これに関して容易に想定される批判は、「どうせ出来レースなんだろう」というものだが、それは大して問題ではない。問題なのは、「神様に誓ってガチです」ということによって、ガチとガチではないものの二分法を持ち込むことにある。何かガチであるもの(=「現実」)があって、そうでないもの(=「虚構」)がある。そういう風に世界を見る視点を持ち込むこと、そしてそのうちガチをこそ志向すること、それが、特徴的だと思う。
他のアイドルとの(特にハロプロとの)相対的な関係において、AKBは「他はガチではない、自分たちこそがガチである」、という表明をしてきたように見える(たとえば悪魔の握手会の件とか)。それを、ハロプロに肩を持ってきたぼくとしては、ずいぶん排他的な内輪空間を作り上げるもんだと良くは思わずにきたのだけれど、もう少し距離を置いて見れば、アイドルの現代のひとつの傾向性として検討すべきことのように思える。
極めて抽象的な話をすれば、ある一方向へのベクトルが発生する場合、その逆へのベクトルも同時に発生することがある。アイドル現象で言えば、U15の少女に清純さを求めるベクトルと同時に、その少女にこそ陵辱し、丸裸にしたいという欲望が起こるとか。そして、ここで言いたいのは、虚構を志向すればするほど、「現実への回帰」もそれと同じ極端さで現れるのではないかということだ。
情報化社会の申し子であるアイドルは、虚構と当然親和性が高い。我々が理想のアイドルを求めた結果、多くのアイドルは完全に虚構の空間の存在と、つまりはマンガ・アニメ・バーチャルの存在となってしまった。我々の理想とするアイドルは、我々が能動的に産み出す。あるいは産み出されたキャラクターを自分好みに改良(=二次創作)する。辛うじて生身のアイドルとして残ったアイドルも、アニメとコラボレートすることによってその身体性を希薄化していく(久住小春に特徴的であるように)。あるいはPerfumeのように生身性を部分的には捨て去り、機械的なイメージを持たせるなど。いずれにしても、スキャンダルや身体の生理現象・変化というリスクを避けるためには、アイドルを虚構化していくことは、極めて合理的な選択であるし、その結果アニメオタクがアイドルオタクよりも比較にならない規模で存在することにもなっているのだろう(「アイドル性」とやらを目的とするアニメオタクがその一部分であるとしても、アイドルオタクよりはよほど多いのではないか)。
一方で、我々はここ数年のうちにアイドルの活動休止とそれをめぐる様々な噂話の類に惑わされてもきた。理想のアイドルを求める志向性は、同時にその理想に外れるものを徹底的に排除する志向性でもある。であるならば、我々は理想を求めると同時に、そうではないものに対しても過敏である必要がある。その結果、スキャンダルは我々にとって大きな意味を持っている。とまあ、これはだいぶ大仰な言い回しである。実際には、生身のアイドルを応援している多くのオタクは、その身体的な問題についてある程度の達観はしている。けれども一部のオタクが過敏に反応するのをネタにして盛り上がる層がいたり、またそれに対してアイドルの事務所サイドが対応せざるを得なくなったりということで、むしろアイドル神話を守るためにみなが儀礼的に振舞っていくかのように見える。いずれにしても、ここで想定されてしまうことは、「メディア(虚構)」×「現実」の二項対立図式である。「アイドルはテレビでは笑顔で性格もよさそうだけどプライベートでは…」式の言い回しは、アイドルが仕事としてメディアに露出する姿は「ウソ」で、プライベートこそが「本当」の姿であるという、優劣関係・上下関係を持ち込んでしまう。であるならば、その「本当」をこそ売りにするようなアイドルがいてもよい。AKBはまさにそうした立ち位置にいるのだと思う。
ところで、モーニング娘。はもともとドキュメンタリータッチの番組(「ASAYAN」)で、お涙頂戴のドラマで人気を得たグループだった。それが2001〜3年以降のキャラ先行の虚構化にともなって、「現実志向」アイドルという位置がぽっかりと空いた、その需要を埋めたアイドルのひとつがAKBだったのだろう(明らかにBerryz工房もそのひとつだった)。改めて開票イベントのレポートを読むと、ある写真の説明として「第三者機関が集計した投票結果を立ち合いの弁護士が届ける。」とあり、またメンバーが涙を流しながらコメントをする姿が写されている。これを、会場のヲタがどのように受容していたかが気になるところだ。写真の弁護士のそばには警備員と思しき人が無表情で立っている。部外者であるぼくがこの光景を見たら、ネタ的に消費をしてしまうことだろう(おそらく笑ってしまうだろう)。つまり、極端に「現実」を志向した場合、それは容易にネタ化・虚構化されるということも指摘せねばならない。「ドラゴンボール」が地球規模の話になって以降ギャグマンガとしても読めるようになる、という事態と同じように、またケータイ小説に没入できない人がそれを支離滅裂な話と捉えるように、「現実」が容易に虚構へと転ずること。
やはり、虚構志向は「現実」から逃れられないし、「現実」は虚構へと転じてしまう。
とは言え、なぜAKBに力があるかというと、メンバーの人気の格付けのように、ヲタにとってどうにもならないものをはっきりと打ち出すことによって、その世界にさらに裏があるであろうというメタ視点を導入しづらいことがあるかもしれない。つまり適度にヲタにとっての不幸もあるから、そのさらに裏になにかあるという視点に立ちづらいのだ。ヲタには、とりあえずそこが最終地点だと信じる基盤がある、と言えるのではないか。その点、ハロプロの方はと言うと、運営が杜撰であったり、メンバー卒業の経緯が不透明であったりすることで、どうしても「本当」はどうだったんだろう、と問う視点から逃れることが出来ない。
二つのどちらを選ぶか。
自由にならない、裏のない(と信じられる)宿命を受け入れるか。それとも、裏があるかもしれない、不確かな楽園に住むか。
第三の道はないものか。