ユニットと個性

ゆきどんハロプロをやめる。
うむ、別にショックじゃない。
でも、それをある時代の終わり、という言い方は確かにアリだ。
Moon-Riderさんの意見はそのとおりだと思うのだ。
http://d.hatena.ne.jp/Moon-Rider/20060615
(勝手にリンクしてしまいました、すいません。)

ゆきどんとはなんなのか。
それは、ハロプロ七不思議みたいのがあったら、間違いなく入っていた問いだろう。
一般的には、なぜ「保田が娘。なのか」なんて言われていたけれども、我々ヲタにとっては、ハロ紺におけるゆきどんのほうが、よっぽどネタとして深みがあったと思う。
2001年に初めてハロ紺に行ったとき、平家・シェキドルゆきどん・カントリー・ココナッツ・そして各種のユニット…うむ、個性がある。
常々言ってきたが、ハローのアイデンティティを簡潔に言うと、それは「違和感」だ。
「へんなの」と言ってもいい。
「なんで演歌歌手がいんの?」「なんで日本語しゃべれないの(レファとか)がいんの?」
なんでアイドルが「わっしょいわっしょい」変な踊りしてんの?
そういう違和感こそが、ハローの魅力だったはずだ。
ゆきどんはその中でも象徴的な存在であったということができる。
「東京Youターン」とか歌ってたときはまだ、単に演歌歌手がなぜか混じっちゃった、的な面白さだったけれども、「東京きりぎりす」に至っては曲そのものもヲタ的だった。いまだになんで「きりぎりす」が出てくるのか知らないが、そこのメロディとフレーズのみが妙に頭に残ったものだった。我々は安心して「バカとわかって没入する」行為をできた。独特なヲタ芸の開発、わざとらしいまでのユキドンコール。そうやってヲタは盛り上がるすべを獲得していったとも言えよう。
そうした、個性あるハロプロを象徴する存在が抜けていくことは、確かにある変化を表しているんだろう。ところで、ではその「個性ある」ハロプロと、今の「没個性化した」ハロプロと、どっちがいいのかという話である。もちろん、人による。だけども、そこには重要な二つの視点があるんじゃないだろうか、とまた散々論じ尽くしてきたことを繰り返してみる。

娘。やハローがまだマイナーだった99年までは、ヲタの形態は純粋な「マジヲタ」であったと思う。(ここで言う「マジヲタ」は簡単に言うとアイドルを人格的存在としてベタに崇拝するタイプ。)そして99〜01年くらいまでがメジャーの時代。かなり一般の割合が増え、ヲタはマジヲタがそのまま生存。02〜04年あたりまでがDD化の時代。松浦や後藤、メロンなど、ソロ紺が増え、浮気性のヲタが増える。(ここらへん卒論で詳しく書いていると思うので参照のこと)そして、04年途中〜06年あたり、熱狂的ベリヲタガッタスに見られる、「マジヲタ回帰」の傾向である。

個性あるハロプロ紺――確かにそのユニットの彩りによってライブはめまぐるしく心地よいめまいを感じさせてくれるものではあった。けれども、そうしたユニット全てを愛でる、という見方がはじめから多くのヲタにあったかというとそれは疑問だ。ちなみに自分はひたすら矢口が見たくて、ゆきどんが出ているときなんかは適当にサイリウムを振っていたし、ココナッツが毎回「情熱行き未来船」を歌うのを退屈だと思うこともしばしばだった。
つまり、ユニットが様々ある、ということは、好きじゃないアイドルの出番が多いということである。そんな中で楽しむ方法は大きく2つあった。①アイドルみんなを好きになること(DD化)、②ヲタ芸を開発して盛り上がること(自己陶酔化)である。
だけども、その二つの見方が進めば進むほど、アイドルの権威は落ちていくのだ、ということは再三確認してきた。05年のハロ紺では、もはや誰がどの曲を歌ってもいいカラオケ状態。アイドル存在の絶対性はどこへやらだ、と思ったものだ。

逆に、今の「没個性化」したハロプロはどうか。
上記のカラオケ紺、これって一見アイドルの歌手としての権威がないという点ではマジヲタ的ではないように思われる。でも、「DD化」を経た上でハロプロのヲタは、アイドルの表層に萌えるという、アイドルの人格を無視した「キャラ萌え」に超越性を付与することに成功したような気がする。だからもう、何を歌ってようがどうでもいいから、ともかくステージにいればそれでいい、というヲタのありかただ。依然ハロ紺では「DD的」な、誰でも応援しちゃうタイプのヲタも多いと思われるが、推しがいないところではヲタ芸もせずタイガーでやり過ごしているヲタも多いような気がする。ただ推しが出てきたところでがっつく、萌える。アイドルを人格的でない、虚構的な存在と捉えながらも、絶対的に推す。こういう事態が起きてる気がする。
例をあげる。道重・久住による「レインボーピンク」だ。
あれは、松浦の「ね〜え?」をさらにデフォルメしたような虚構のユニットとしてもともとあるわけだが、あれに少なからず熱狂したヲタはいた(自分も含む)。それは、アイドルが虚構的な存在として権威を剥ぎ取られていった流れを極端にデフォルメすることによって、逆に権威を復活させているのだということができる。
今自分が辻に感じているのもそうだ。あまりにも虚構感を漂わせるがゆえに、逆に絶対化できる、そんなマジヲタのあり方が現れはじめているような気がするのだ。

話をまとめるとだ。
「個性あるハロプロ」は、確かに面白かった。ただ逆に「DD化」を促進し、アイドルの権威を剥ぎ取っていく一因ともなった。
「没個性化したハロプロ」は、確かにつまらない部分がある。ただ、それによって、なのか、それの原因なのか定かでないが、その事態は現在のヲタの「マジヲタ回帰」とリンクしていると思う。要は、一つ熱中できる対象があれば、ハロプロという枠は要らないということだ。
そんなわけで、ゆきどんハロプロ脱退も時代の自然な流れと言える。ヲタ芸もすっかり現場では少なくなってしまった。僕らはまた、アイドル崇拝を始めたのだろうか。


また一方、「GAM」というユニットが誕生する。松浦と藤本、無難だ。新鮮な驚きなどそこにない。別に今さら強烈な個性など感じない。でも、無難だ。松浦は、無難だ。そんな無難さは、ハロプロが歴史を持ち始めた、ということなんだろうか。
すぐに終末がきそうな、未来の見えない強迫観念でヲタをやるより、それは一見とても幸せそうだ。だけどもつまらなさも含み持っている。ただ、今のヲタの心境としてはやっぱり、安心してアイドル世界にいさせてよ、ってことなのか?
かくいう自分も週末には、虚構の世界に浸る生活である。