庄司は大事?

さて、藤本の件である。
「責任」とか「軽率」とか、違う。もういい、それはいい。というか僕は、多くの人が諦観でなく書かれているように、これ自体はショックを受けるべき事態ではないと思っている。
そんなことよりも心配すべきは、「アイドルである人間が「アイドル」であるということに未練がないのではないか」ということだ。その場合、彼女に対する追及は意味をなさないのではないか。それは、死刑になっても構わないと思っている人間が殺人を犯したことに対して、責任を問うという虚しさであったり、あるいは愚かさを自覚した上でヲタ活動をしているヲタに「愚かだ」と言う意味のなさだったりと同様のものである。
つまり、あるルールの範疇から自覚的に逸脱する者に対して、そのルールに則った説得をするという場合のもどかしさである。例えば倫理・道徳という点では、「ある共同体内部でうまくやっていきたいなら守れよ」っていうのが基本で(まあそれは疑問に付されることもないくらい普通は巧妙に隠蔽されるんだけど)、うまくやっていく気がない人間にはもはや説得的ではない。
「アイドルとしてうまくやっていきたいなら」守るべきルール=「プライベートはうまく隠せ」ってかい。プライベートとは、「私人」の領域である。「プライベートはうまく隠せ」は「公人」である「アイドル」のルールである。ん、いつアイドルは「私人」になれるんだ?盗撮・盗聴・ストーキングが可能性としてはアイドルの全生活を脅かすものである以上、アイドルが上記のようなルールを守った場合、アイドルは常に「アイドル」でなければならない。そんなルールを押し付けられたら、まず守れんね。どうやったら守れるかも想像できない。「せめてこういう期間は行動を慎め」という妥協案で責めますか?僕はやさしすぎるのか、「こういう大変な時期だからこそ」という可能性も考えてしまうのだ。いや、違うな。大切な人が死んで悲嘆に暮れていても腹は減る、みたいな、極めて当然の話じゃないのかね。もう少し「人間」でいられる領域を拡張してあげませんか、アイドルに対して。少なくとも僕らヲタは許しませんか。一般人の一瞬の暇つぶしのためにアイドルが使い捨てられようとするのに対して、僕らはヲタであるがゆえに抗いませんか。アイドルである人間が、どれだけのストレスを抱えて、自らの人間性・身体性を削りに削って我々に「夢」を与えているか、その想像力がごくごくたまにヲタの脳内に生まれれば、それで丸く収まらんのか。
もう少し理性的に語るなら、僕はアイドルの人格をあまり信用していない。神格化されるような人間は、そもそも普通の人間らしさからは何かかけ離れた性質を持っている。アイドルはただのまっとうな人間ではない、がゆえにアイドルであるし、逆にアイドルという人生は、まっとうな人間的生活でないということもできる。いずれにせよ、アイドルをやっていてまともな人格でいられるという可能性を僕はあまり信じない。であるがゆえに、僕はアイドルが上記で述べたようなルールや、多くのヲタが追及するような責任を背負えるだけの能力なんて持っていないと思っている。であるがゆえに、僕ははじめから、そうした責任を追及することにあまり意味を感じない。そういう風に理性的に考えつつも、どうしても感情的な反応をしてしまう、というヲタであれば共感できるが、責めて責めつくすような論調は僕にはバカバカしく響いてしまう。
話がだいぶそれた。冒頭の話に戻るが、アイドルがこうした「ルール」を窮屈に考えて、別にアイドルでいつづけなくてもいいや、という思いを抱いてしまう、という可能性が我々ヲタにとっての潜在的な恐怖になりつつある気がする。矢口を例にとって考えれば、事実関係はともかくとして、意識としてヲタが矢口を追放したのか、矢口がアイドルに見切りをつけ(=ヲタに見切りをつけ)たのかという二つの視点を持ち出せる。「アイドルとしてあるまじき行為をした矢口がアイドルをやめさせられた」という構図は、ヲタがアイデンティティをアイドル側に残している(アイドルヲタである)限り、矢口を責めることでヲタ自身の実存には影響を与えない。しかし、矢口がアイドル稼業に見切りをつけ、スキャンダルを利用してヲタからも意図的に見放されるようにすることで例えば女優転身を図る、などという構図を描くことだってできる。そうなると、ヲタの能動性ではなく、ヲタはただ受動的に「見放された」存在としてあるしかない。我々をアイドル世界に引き込んだ当の存在が、アイドル世界から去り、ヲタだけが残される、という構図。
僕にとってはそれはむしろ松浦亜弥において当てはまる。アイドルから歌手へと転身してしまった松浦。僕は完全に松浦亜弥に取り残された。「あやや」側に取り残されたよ。そのどうしようもなさ、途方に暮れる感情を、歌手松浦亜弥という存在への批判にすりかえていることに気づいている。それと同様に、アイドルへの怒りや責任追及が、ヲタの実存的危機をすりかえたものであることが、往々にしてあるのではないか?僕らはただただ「取り残される」のが怖いのではないか?