おいも屋本舗に行って来た(2回目)

火曜日に、おいも屋本舗に行ってきた。U15専門のお店ですね。別に何を買うというでもなく。
昨年9月に一度行って以来だ。
「視聴覚室」で流れているDVDが昨年9月とほとんど変わっていない気がする。いいのかそれで。「いもうと倶楽部」の広告のポケットティッシュがあるので2つ取る。
僕が今回一番驚いたのは、いや少し想像を働かせれば十分に思い当たったであろうが、男の子のDVDがほんのちょっとだけ置いてあったことだ。「おとうと倶楽部」なるものもあるんだなあ。DVDの裏を見たら、裸で仰向けになって、下腹部だけはらりと布を乗っけた、みたいなのもあり。
ハロプロ系は相変わらずほとんど置いていないが、りしゃこの写真集と、なぜか「寝る子は℃-ute」DVDと、あと「LALALA幸せの歌」が大量に置いてあった。


さて、店内のDVDやら雑誌をしつこく見回る。U15のアイドルは年齢がひとつの価値基準であって、必ずといっていいほど名前と年齢がセットになって表示される。となるとどうしても、何歳まで下がっていくか探すことになるのだが、最も低くて4歳くらいだろうか。6歳で水着のジャケットのDVDを見たが、かけらもエロくない(ように感じる)。前にも書いたが、ここまでくるとおむつのCMに出てくる幼児との差異が分からなくなってくる。以前「しゅごキャラ!」放送中に流れたおもちゃのCMでは、5、6歳の女の子がお風呂から上半身裸で飛び出してきたが、そうなるともう児童ポルノもなにがなにやらである。ところで昨年、低年齢化という過激化には際限がない、と書いたこともあるのだが、幼児になってくると過激化という言葉を使うことがはばかられる感じがある。溢れかえるDVDを見て感じるのは、過激という感覚の極点は11〜15歳あたりにある気がするということ。まあこれは結局第二次性徴、特に初潮という時期に合致するのだが。要は身体的に女性的特徴が出ない限り、過激も何もないじゃないか、という感覚。例えばポケットティッシュに写る山中知恵ちゃんは12歳で胸の谷間が存在するのだが、そういうこと。実際、5、6歳ではDVDにおいても視聴者から一方的に視線をやるような構成の作品が多そうなのだが、性的なイメージを伴ってくる、もう少し身も蓋もない言い方をするならセックスのメタファーが使われる作品というのは10歳を超えないと出てきづらいのではないだろうか。
さて、ここらへんからは森岡正博「感じない男」の記述も思い出しながら書きたいのだが、そうした11〜15歳の女の子――これを当面U15と呼ぶことにするが――に対する欲望として、2つの対照的欲望をさしあたって措定することができると思う。つまり清純さ、無垢の聖性を求める志向性と、自分の意のままに陵辱したいという志向性とにである。僕はこうした二つの対極と思われるような志向性を含みこむ作品が店舗内で混在していること、一緒になんということもなく置かれることに戸惑いを覚えるのだが、結局のところこの二つの志向性は根本的には同じものなのだ、という凡庸な結論になりそうである。
おそらくは、清純さ、無垢の聖性への憧れ、というのは、ひとつにはある種の同一化への欲望なのだと思う。僕がなっきぃなっきぃ言っているのも同じ。なぜU15に対してそうした欲望が湧くかと言えば、まだ性的に身体的な差異が少ない年齢であれば、「そうなれる(た)かもしれない」という可能性を自分の中に残すことができるからだ(「感じない男」にそんなようなことが書いてあった気がする)。ただ、その希望が断たれたという感覚が強くなればそれはねたみとなる。その差異を厳然と感じてしまえば、それは「なぜか自分がなれなかったもの」として立ち現れ、それに対してのねたみが暴力となって発露する。
またしかし、これを超越的な他者との関係と捉えることも同時にできる。無垢の聖性とは権威である。「ロリータ治療塔」というロリータ愛好者の方のページによれば、「ロリータ愛好者の守るべき規範」として、「許される接触は、せいぜい髪を撫でる程度までです。」とある。ここにおいては徹底的に「対象との距離」「禁忌」というものがある。ところが禁忌があるところには、禁忌を破る快楽というものも同時に存在してしまう。超越的であったはずの他者の超越性をはぎ、自分の意のままにする快楽。
同一化しようとして失敗して差異を認める形で陵辱するか、権威を認め、崇拝していた者を陵辱する快楽に走るか、どちらにしてもこの崇拝と暴力の二面性というものは同時に生まれてきてしまうもののようである。それって僕が対アイドルにおいて考えている「愛」と「暴力」ってことと同じで、広く倫理の問題はこれに関わっている、多分。
アイドルを守りたい、と考える僕は、U15でも露出の過激化でアイドルのアイドル寿命が短くなったり、あるいは精神的苦痛をアイドルが被るならやめたほうがいい、と自然に考えてしまうのだ。僕はU15を好む人間なら、わざわざ女の子が裸に近くならなくたって十分に興奮できるはずなのではないか、という考えを持っている。むしろ、こちらからの能動的作用によって、つまりまあ脳内の操作によって、いかようにでも読み込んでいくことこそが醍醐味ではないのだろうかと勝手に思っているところなのだ。だからU15をもし性的に消費するとしても、そうした想像力に任せることで、実際の女の子を暴力から守っていくことこそがU15における倫理なのだ、としたいのだ。だけどこれって多分成り立たない。
ある規範ができると同時に、その規範を破る快楽が生まれる。これってエロの世界でこそ際限なく続くことなのだ。僕は思い出す。「9・11」の後にコンビニに並んでいたエロ本に「同時多発エロ」というコピーが何の恥ずかしげもなく艶めいていたことを。例えばモーニング娘。を真剣に応援している人がいて、一方で「シャイニング娘。」を消費する人がいる。そうした形で、女の子を取り巻く世界は常に無秩序にエロ化していくベクトルを孕んでいる。その無際限さがちょっと嫌なのだけれど、それに対してどうしようもないという無力さも感じる。エロがそこまで強度を持って世界を支配しているのは、とりあえずそれが本能的な作用だからだ、と言える。象徴としての権威が限りなく相対化され、超越性を失う中で、確かなもの、相対化できないものは自分の感覚だ、というわけか。射精の瞬間を相対的な視点を持って迎える、ということがほとんど不可能であること、ここに確かにエロの世界がある権威を持って存在してしまう理由があるようである。
自傷行為の流行を例に挙げながら、「現実」(=激しく、時に破壊的でもある現実)への逃避という現象が現代社会を特徴づけている、と大澤真幸は述べている(「不可能性の時代」より)。一つの選択肢として、身体感覚の強度を求めることによって現実感を得ようとするという方策はありうる。だけど僕は、自らの内にそうした志向性を認めながらも、その暴力性に抗していきたい気もしている。