代替可能性に関して(2)

代替可能性に関して(http://d.hatena.ne.jp/onoya/20061225/1167012084)も参照のこと。


愛をめぐる二つの形式がある。
『「干渉しないことこそが最高の愛」と「愛とは究極の束縛」という二項』。
言語哲学に突っ込みそうな話だが、型にはめずに対象を認識するとは、常に固有名詞として対象を認識するということだと思うが、それって可能なのかという議論は検討する価値があるか。


まずは「僕の愛(斧屋さんへ私信)」(http://d.hatena.ne.jp/tan_po_po/20071101/1193885337)を引用します。
『まず「愛とは究極の束縛」とは、相手の意思に拘らずこちらの身勝手な愛で束縛するという捉えではなく、『この人に愛されたい』とその相手に思わせる(優しさとか強さとか思いやりとかの)姿勢を示すという捉えです。
(中略)
で次に『こんなカゴの中に居させるのではなく、もっと大空を舞った方が幸せなんじゃないか?』と疑問を持つことですね。人と人に戻すと、『僕に愛されて彼女は幸せだと思ってくれているけど、もっともっと大きな幸せがあるんじゃないか?、僕の愛は彼女を殺してはいないか?』という疑問です。その疑問を生んでいるのが僕の中にある「干渉しないことこそが最高の愛」です。』


なるほど。…無難な言い方をすれば、この二つの愛のバランスですね、ということで終わりそうではある。ただ、この愛たるもののリスクに関しても留意しなければならない。特に今年という年を考えたときに。
まず、前者の「愛とは究極の束縛」だが、これは主体の能動性が強めに表れる愛である。こちらからの働きかけ。「優しさとか強さとか思いやりとか」を示すということ。とは言え、対アイドルということを考えたときに、これがどういう行動になるかというと、「『この人に愛されたい』とその相手に思わせたい」行動なわけだから、ともかく何とかして自分をアイドルに認識させなくてはならない。だから、この愛(愛と呼んでいいなら)が行き過ぎると、ヲタが「僕を見て!見て!」と駄々をこねている状況になる。要は、アイドルを能動的に愛しているように見えて、結局のところ自分をアイドルにとっての固有名詞(いつも応援してくれる「〜さん」)にしたい。愛しているように見えて、愛されたいだけ、という状況になる。
視点を変えてこの状況を描きなおしてみる。誰か複数の男性に愛されている女性(たとえばアイドル)がいた場合に、ある男性がそのアイドルにとってただひとりのかけがえのない男性として認識されるためにはどうすればよいかというと、自分を他の誰でもない存在として必死にアピールするか、「僕はあなたのことをこんなに理解しています」「僕はこんなにあなたのことが好きなんです」という「アイドルへの理解」を示す他ないように思われる。その時に使う言葉は、ただ「あなたを愛しています」という表明のみにとどまっては不足である。なぜなら、そんなことは誰にでも言えるし、この場合はアイドルに振り向かせる目的があるからだ。そうなった時に僕らが紡ぐ言葉は、「あなたは〜ですね。」「あなたのこういうところが好きです。」という、アイドルの概念化を志向するものになる。そうした概念化は、アイドルをある状況に固定化する働きがある。たとえば、「Berryz工房アイデンティティは思春期性にある」といった言説は、Berryz工房のメンバーを身体的に束縛するかもしれない。
ところで、ネット空間での言説の場合、もちろん「アイドルにこのサイトを見てほしい」というヲタはそんなに多くないと思われる。ネット空間の場合には、「束縛の愛」は、アイドルにとって自分がどうかというよりは、アイドルをネタにして自分がヲタの中でいかにかけがえのないオンリーワンになるかという自己顕示欲の闘争ということになる。たとえば僕の「℃-uteというアイドルを『時間』という概念を用いて理解する」といった試みはその一例である。それに対してなされる批判は、「アイドルを概念化することによって、いわばアイドルを普通名詞としてかけがえのなさを奪い、またアイドルをある一定の(場合によっては誤った)イメージに押し込めることだ」というものであろう。この批判には部分的に首肯せざるをえない。
ただ僕は、これによって℃-uteのある一側面を捉えることができるのではないか、という試論のつもりではあったし、℃-uteが好きだからこそ書いた文章であることは間違いない。それが過度にアイドル理解を閉塞させ、狭隘なイメージのみを跋扈させるようであれば問題ではあるけれども、ある程度アイドルを概念化するということそのものが悪であるというのは間違いだ。もし概念化ができないのなら、僕らは極端に言えば「℃-uteは女性アイドルである」という言葉さえ使えないのだし、それが大げさな例というなら、「℃-uteは情熱のみなぎるグループである」という主張はどうか。これを否定するということは、「彼女達の漲る情熱の体温を何となく表現したくて」というプロデューサーのコメントすら否定することになる。もちろんつんくは神様ではないが、アイドルがあるコンセプトに従って売り出される商品という側面を否定できない以上、アイドルは初めから概念に縛られている存在である。そのことも念頭に置かなければいけないことは言うまでもない。今回のFCの「エグゼクティブパス」の件でヲタが大反対するなら、それもまた、「ハロプロはそんなアイドルじゃない」という概念化を行使しているに他ならない。



次に、「干渉しないことこそが最高の愛」である。これは一見受動的な対アイドル関係である。アイドルに対してこちらからは働きかけない。これは捉え方を極端に二分化することができる。「アイドルのすべてを受け止める」のか、「アイドルが何をしようがどうでもいい」のか。もちろんアイドルの人間としての幸せを考え、アイドルの意志を尊重し…というのは立派な態度である。しかし僕は、一見、「すべてを受け止める」と「すべてがどうでもいい」との差異を発見できない。
たとえば、「干渉しない」ということをライブ空間で考えてみると、僕は「ヲタ芸」を例にしたくなる。あれこそ、アイドルに対する無干渉ではないかと思う。僕はヲタ芸を善悪両方含みうる行為だと思っている。以前も書いたが、「前田有紀ヲタ芸」を例にしてみよう。ゆきどんが「東京きりぎりす」をハローのライブで歌う時、ヲタは必死でOADやらロマンスやらを打つわけだが、これこそが無干渉である。注意したいのは、無干渉は無視ではないということだ。ヲタの選択肢として、その間にトイレに行くという行動もとれる中で、あえてそこにとどまり、曲にあわせて踊る。だからといってそれがゆきどんへの応援かというと、それはない。つまりここで言う無干渉とは、適度に距離をとってその空間内にとどまり、アイドルのあり方に身をまかせる、というような受動的なありかただということができよう。ここで「受動的」と「能動的」という語はいささか錯綜する印象を与えるが、ヲタ芸がここでは一旦ゆきどんという存在を認めた上で始まり、その存在を否定しない形でゆきどんを包み込む愛であると捉えたい。これには反論が予想されるが、僕はハロプロにおけるゆきどんは、ヲタ芸によって救われた部分が否めないと思っている。「受動」⇒「能動」という愛の働きを僕は見る。
ところが、ヲタ芸がなりふり構わず使われるようになったとき、これはもう「アイドルはどうでもいい」という志向性に転換している。「干渉しない」が、完全に「鑑賞しない」にかわるのだ。固有名詞としてのかけがえのなさが、「名ばかりの存在」にかわるのだ。これが固有名詞の怖さだと思う。何の概念化もせずにアイドルを愛することを目的とする場合、そのアイドルがなんであるかということに極度に無関心になってしまうおそれもあるということだ。
たとえば、「辻が結婚する」ということになった時、怒るヲタと祝福するヲタがいたけれども、それが一面として「アイドルとしての死」である以上、祝福100%であるヲタは「アイドルとしての辻」に無関心なのではないかと問うことも可能だろう。いやもちろんそれがもしかしたら理想のヲタの境地なのかもしれない。ただ逆に言えば、そんな祝福100%というのを、もし全てのヲタに求めるとするならば、つばめ氏が前に書いたように、ヲタのほうの人間性の剥奪という事態を招くであろうと思う。


言いたいことは、結局、バランスと言うことである。前書いたことともしかしたら矛盾しているかもしれないし、まだ言葉足らずな気もするのでまた書くと思う。
ともかく、僕はアイドルが好きだから、好きだということにおいてやはりアイドルを束縛したい。けれども、好きだからこそアイドル自身に幸せになってほしいとも思う。このバランスをどうとるかが僕の「アイドルに対する倫理」だと今のところ捉えている。