「本来」からの逸脱ごっこ

先週の「SPA!」で、U15に関する記事が載っていた。
おそらくおいも屋本舗であろうと察せられるジュニアアイドル店の写真も載せながら、U15の過激化と低年齢化を憂う内容。まあ、当然といえば当然の記事。「児童ポルノ法違反で摘発は時間の問題!?」ともある。
さて、アイドルマニアの男性の懸念として以下のようなことが書かれていた。
「ファンは少女たちに純粋さを求めるのが本来」の姿。だが、「過激な作品ほど人気が集まっている」。
…これについてとりとめもなく検討したい。


僕は先月、おいも屋本舗での印象を記した(http://d.hatena.ne.jp/onoya/20070905/1189011651)のだが、それへのブクマコメントが面白かった。
僕は、SPA!が書くように、「少女たちに純粋さを求めるのが本来」であって、彼女たちが「容赦ない大人の視線に対抗する、性的な身体を持つ女としての視線」をわれわれに向けた時点で、U15の魅力はないものだと考えていた。
それに対し、baka551さんには、
「私には、過激なU-15を好む人は、「本物ロリ」「子供で抜く」への好奇心やタブーに魅了されていると映る。タブーだからいいのであって、ロリ顔の大人や抜かないU-15には興味がないのでは。であれば過激化は必然。」というコメントを寄せていただいた。


なるほど、U15だからこそのエロを求める人もいるのだなあ。これについて、いろいろな言い方ができると思う。
僕は創造と模倣のいたちごっことか、形骸化の連鎖、とか言いたい。
僕は、baka551さんのコメントに違和感があった。「「本物ロリ」「子供で抜く」への好奇心やタブーに魅了されている」、「であれば過激化は必然。」この前者と後者のつながり。タブーに魅了されている→過激化。これは正しいのか?
タブーを破るのが誰かという問題。
はじめにある領域に進出することってのは、創造なんだ、多分。前にも述べたように、はじめに少女に笛をくわえさせるアイデアを思いついた人間にはそれなりの評価を与えていい。ただ、当初その作品は、読み手の能動的な読み込みによって初めてエロとしての価値を持つことになるだろう。その意味で、タブーを破るのは消費者である。しかし、それが安易に模倣され、大量に流布し、定式化し、ひとつの記号として我々に定着すると、我々は、「少女に笛」をほとんど比喩としてではなく、そのままエロとして消費することになるはずだ(少なくともその消費において頭はあんまり働いてないよ)。つまりそこにおいては、消費者は別にタブーを破っているわけではない。むしろ、破られたタブーを消費しているのだ。少女が「Tバック姿でこちらを見つめる」時、我々はもはや破るべきタブーを持ち合わせていない。破られたあとの残り物にありついているだけなのではないか?
本来的に性の対象にならないものを対象にするのがU15におけるタブーであるのなら、性の対象になる気満々の視線をこちらに向ける少女に対して、NOと言えたってよさそうなものだ。…だけど、そこには消費者の違いの問題があるのかなあ。
能動的に読み込んでいく消費者と、受動的な消費者。能動的な消費者が開発したエロが定式化し、露骨になって、受動的な消費者が増える。そこで、能動的な消費者は、もはや創造的営みではなくなったエロではない新しいエロをまた開発していく…という循環。そんなものがあるのだろうか。もしそうであるならば、U15においても、だんだん裸に近くなる、という事態は避けられないように思う。なぜなら、裸が身体的興奮を呼び起こすことにおいて最も刺激的な姿であることは疑いようがないから。頭を使うエロより、頭を使わないエロのほうが流布するのは当然だ。
そんなわけで、確かに、「過激化が必然」というのは言える気がしてくる。


ところで、過激化とは何か。僕はU15において、露出と低年齢化という2つの過激化に注目しているが、これってなんなんだろうと思う。
まず露出の過激化について。もうほとんど裸に近い姿になっているわけだが、これがもし全裸になったら過激化は終了、ということになるのだろうか。いやはや、どうだろうか。全裸であってもどこを撮るか、どう撮るか、ということによって差異化される。さらに進んで陰部を撮るということでも、体毛に隠されているかどうか、となるわけで、じゃあ体毛をすべて除去して女性器を写せば極みか。そうでもないだろう。じゃあ女性器のすみずみまでよく見えるような何らかの細工をすればいいのか。ここまでくると、おそらくエロとともにグロテスクの感が強く生まれてくるだろう。
低年齢化について。本来的にエロの対象にしていいのは18才以上である。それがタブーを侵されU15になり、U10になり、U6まであると「SPA!」にはある。じゃあ、「一般」の私は、15歳と10歳と5歳の半裸のどれが過激であると判断するだろうか。5歳だったら、もう少し下がればオムツのCM出ていいんじゃないのくらいの歳である。
ここで気づいたのは、過激化には別にゴールはない、ということ、そして、エロは結局は我々の判断にゆだねられている(部分も多い)、ということだ。なにが最も興奮する「最エロ」であるかは自分で探せ、と。服を着たままのほうが興奮する、なんていうのを見ると、エロってのはとにかく「本来」から外れていく営みなんだなあと思う。でもって、その「本来」もまた捉えられないんだから始末が悪い。



なんか思わぬ文章になってしまった。
U15には、もちろん純粋さを求める人もいる。
つばめさんのコメントが以下。
「「U-15で抜ける」ことに代替不可能性を求めてる人もいるだなと思った。私が求めてるのは「思春期性」という代替不可能性ですが。」
だよねだよね。…ああ℃-uteになりてえ!!