照沼ファリーザ写真展【食欲と性欲】

昨日、秋葉のアイドルイベントの前に、ヴァニラ画廊へ。


照沼ファリーザ写真展【食欲と性欲】
はしたない、恥ずかしい。乙女心を傷つけるものたち。でも翻弄されてしまう。
欲望によって、私は犯されて、視界はくるくるまわる!かわいそうで可愛い、愛すべき自分だ。
http://www.vanilla-gallery.com/gallery/terunuma/terunuma.html


照沼ファリーザは写真家でもあり、AV女優でもある。撮る側でも撮られる側でもある。ふむ、主体と客体の間。しかしそういうことよりも、なんというか、ポップな色合いとグロテスクな表現に魅了される。
【食欲と性欲】と題された展覧会だが、その境界も融解させるような表現の数々。裸体と野菜が並ぶ風景。にんじんやゴーヤやバナナや、ソーセージが並ぶが、それらをもはや男性器の比喩として見ることにはもう飽きた。バナナを尻にはさんだりするけれど、それは快楽のための道具であって、別にそこで必要なのは男性器ではない。(ところで先日秋葉原の大人のおもちゃ屋でTENGA製のオナホールを見たが、その表現は感覚としての快楽に向かっていて、女性器の表象からは完全に離れている。それを思い出した。)
食べること・排出・排泄、本来的にはそれらはグロテスクである。チョコレートパフェと、排泄物は、よく似ている。例えばトイレの写真で、床に盛られているチョコレートクリームのような排泄物は、食べたものと出ていくものは同じものなのだということを思わせる。
それから、裸体にはよく虫が止まっている。(そういえばトレヴァー・ブラウンの絵においても、少女に群がる虫がよく描かれている。)しかしこの写真では、どちらがどちらを食べようとしているのかはよく分からない。しばしば男性が性欲を満たすことにおいて、女性を食べるという比喩が使われるが、果たして常に女性は「食べられる」だけなのか、受動・能動は一体どのように決定するのか。


藤子F不二雄の短編で、社会における性欲と食欲の恥ずかしさが入れ替わる話があるが、人間・社会における性欲(食欲)の立ち位置について、改めて考えさせられる展覧会でした。