娘。学会レジュメ

2008年8月13日 レジュメ「複相化戦略」を一応あげておきます。ほとんど実際のと変えていません。先日のエントリのまとめなので、読んだ方にはあまり意味がないと思われる。

                              
*複相化戦略*
アイドル現象を以下の図によってカテゴライズしてみる。

【本質】…アイドルを、「何をなしたか」という「行為」において評価する軸。それが歌であったり、演技であったりした場合、その「作品」を評価する、という視点。
【表層】…アイドルが「何であるか」が問題となる。顔や肉体、声といった現象がそのまま受容される。アイドルが「存在」として見られる。
【リアル⇔非リアル】
「リアル」…「もっともらしさ」と「現前性」によって定義づけられるものとする
伊藤剛テヅカ・イズ・デッド」P85)もっともらしさ…「実際にありそうなこと」に感じさせるもの
現前性…「目の前で起きているように感じさせたり」、「作品世界の出来事がありそうかありそうでないかにかかわらず、作品世界そのものがあたかも『ある』かのように錯覚させる」


ハロプロの場合
【本質⇔表層】の両端
本質:歌手化(松浦亜弥
表層:エロ化(水着写真集)
【リアル⇔非リアル】の両端
リアル:アスリート化(ガッタス
非リアル:マンガ・アニメ化(月島きらり


しかし、これはあくまで個々の現象について点で捉えたもの
→各アイドル現象が多様な現れ方をしていけば、ある広がりをもった平面を形成する
(例)ガッタスがフットサルの試合を終え、メンバーがマイクを持って話をする時、彼女達の「キャラ」が押し出され、ニックネームで呼ぶべき空間が立ち現れる。(下図)


(例)Perfume…振り幅の大きさとそのバランス
曲中、機械的なイメージを打ち出すPerfume(左上)
MCで奔放なトークを繰り広げるPerfume(右(表層)へのベクトル)
感動して「あーちゃん」が泣いてしまう時(下(本質・リアル)へのベクトル)

仮説…それらが形成する面積が広く、そして各状態がバランスよく共存する時、アイドル現象は至福の時を迎える。もちろん、ただ闇雲に欲張っていろんなベクトルへ向けすぎると、コンセプトがはっきりしないということになり、戦略としては失敗する。

[言いたいこと]
①アイドル現象は多くの要素から成り立っており、何となくでもこの図にアイドル現象を平面として配置してみることで、各アイドルを比較しやすくなるのではないかということ。
②各アイドルがどのような振り幅を持っているかを確認することで、そのアイドルのコンセプト・戦略を理解しやすくなるし、またそのアイドルがどうしていったらよいのか、という考えの助けにもなるのではないか、ということ。


[重要なのはバランス感覚]
(例)松浦亜弥は、あまりにも「本質」(歌手)に寄り過ぎてしまった自分のバランスを補正するために、ライブのMC中にヲタに甘えることで自分を「存在」のほうへとずらそうとする。

アイドル現象が複数の相として現れ、それぞれがお互いを相対化することによって、お互いを補強していくメカニズムがある
(例)Perfumeにおいて、MCで「ぶっちゃけトーク」をするメンバーは、いつもそれだけをしている存在だったら、「いや、でもそれは本音じゃないだろう、もっと裏があるはずだ」という疑念の目を逃れることができない。それが、「楽曲では機械的な振付をしている虚構的な存在」が広島弁で「ぶっちゃけトーク」をすることで、それが現実だ、「ほんとう」だ、という信用を得てしまう。
逆に、「機械的なイメージ」だけが先行すると、「本当は人間のくせに」「音声を操作してる、ちゃんと歌ってないじゃないか」という非難の声が生まれてくる可能性がある。ところが、人間味のある状態を「ネタばらし」することで、楽曲のほうでの彼女達のイメージをうまく「作品化」することに成功している。
まとめると、楽曲では彼女達は「作品」として記号的に「あり」、トークの場面では、彼女達は「存在」として身体的に「いる」。このバランスの絶妙さ。
→「複相化戦略」と呼びたい


[「複相化戦略」のメリット]
①一つの相であれば疑念を持たれてしまうところを、複数の相を持つことによってあらかじめ回避することができるという点
→消費者はもはや、ただベタにアイドルを信奉することはできない時代。
アイドルが「分かってやっていますよ」というポーズをとる必要
②様々な相を持つことで、異なる消費層から支持を受けられるというメリット
③「アイドルの実存を守る」
「アイドルをしている人間」=「アイドル現象の総体」であるという苦悩を抱えさせない。アイドルのあり方を複相化し、自分像をいくつかに分散させること。
→アイドルの仕事中はニックネームで呼んであげたほうがよいのでは?
    →「キャラ」「キャラクター」概念の区別を!(後述)



*「キャラ」「キャラクター」概念の峻別*

伊藤剛による「キャラ」と「キャラクター」概念の区別
「キャラ」…多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの
「キャラクター」…「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの
この概念をアイドルへ、ひいては実際の人間のコミュニケーションにも利用できるか
日常語としての「キャラ」…人間関係の中で、互いを差異化づける。職場の中の役職であったり、「いじられキャラ」のように、表層的な関係の中で差異化づけるためのもの。
「キャラクター」…より人格的、「『人生』や『生活』」への想像をさせるもの。これは個人間の私的な関係性になったときに立ち現れる。
→単純に言えば、「キャラ」は役職やニックネーム、「キャラクター」は実名
問題は実名があまりに遍在しすぎるということ。→有名人には重すぎるのではないか

アイドルの実存を守るために、「キャラ」と「キャラクター」を峻別すること。できれば、アイドルは芸名(ニックネーム)で活動してほしい。

『蒲池法子が「松田聖子」とのあいだに常に距離を持てたのは、本名とはまったく違う芸名を持っていたからだった。彼女は本名と芸名を使いわけ、松田聖子を演じきっていた。そして、蒲池法子が演じている芸能人・松田聖子が、さらにアイドル松田聖子を演じていた。そういう二重・三重の構造にあったために、松田聖子は数限りないスキャンダルを受けても耐えられた。(略)しかし、本名を芸名とした中森明菜には逃げる場がなかった。それが、後に大きな不幸を招くのである。』「松田聖子中森明菜」(中川右介著)
アイドルが「アイドル現象の総体」と「アイドルである自分」をしっかりと峻別すること、またヲタの側でもそうした認識をしていくこと。「キャラ」「キャラクター」概念の峻別をヒントに、僕らは対アイドル関係を構築していかなくてはいけないのではないか



*リアリティとは何か*

伊藤剛の「リアリティ」=「もっともらしさ」と「現前性」
もっともらしさ…「実際にありそうなこと」に感じさせる
現前性…「目の前で起きているように感じさせたり」、「作品世界の出来事がありそうかありそうでないかにかかわらず、作品世界そのものがあたかも『ある』かのように錯覚させること」

前述の図で言えば、より「本質」に近づくほど、「リアル/非リアル」は「もっともらしさ」において判断されるだろう。「表層」に近づくほど、「現前性」によって「リアル/非リアル」が判断される、このように考えてよいかと思う。

重要なことは、「真偽(現実⇔虚構)」と「リアル/非リアル」の区別
→「現実」を特権化することの危険性
①自分の知覚だけが「リアル」であると見なす安易さ
②メタ化できない過激な描写(ケータイ小説に見られるような)こそ「リアル」であるとするような認識
→アイドルのスキャンダルなどが格好の材料とされてしまう
「現実」の皮を被った「虚構」に踊らされる、という皮肉な事態に陥る


[リアリティを取り戻す]
もっともらしさ…我々がどのように物語を紡ぐか
マンガ・アニメの二次創作のように、「真偽」ではなく「もっともらしさ」での判断を
→例えば雑誌にアイドルの現実的側面が載せられた時に、「信じる/信じない」ではなくて、それは「受け入れられない駄作」であるという感覚。そうすることで、アイドルの実存を守るという方策をとれるか。
現前性…イベント・ライブの現場で目に映るものをどう感じるか・信じるか
      
我々の能動性が問われている。
 ⇔ Peachy’sがもたらす受動性(口パクアイドルと公言することにより、我々が能動的に読み込む余地がなくなるということ。またその公言により、他の口パクアイドルを相対化してしまい、結果としてアイドル現象・アイドル産業を狭隘なものにしてしまう恐れがあること)


我々がアイドルの「リアル」を作っていくことの重要性

…で、相変わらずどうしたらアイドルを愛せるのかな、という問いにさいなまれる私。


レジュメはこんな感じでした。まだまだ検討の余地あり。