物と人との交錯

あまりまとまらないことを書こうと思う。
性的な欲望に関して、仮に
「女性 → 少女・少年 → 動物 → 非生物」
というようなアブノーマルな方向性があったとする。
欲望の対象が「少女・少年」だと、いたいけな子供たちを陵辱するイメージで、犯罪の匂いがどうしてもしてしまうのだけれど、対象が動物になるともはや変態度が高すぎて犯罪という感じがしない(少女をくすぐるビデオに興奮するのは犯罪の匂いがしても、動物がくすぐられるイメージビデオに興奮する人には犯罪の匂いがしない、犯罪というより、ただひたすら変態であるという気がする)。性的な欲望が非生物を対象にする例はうまく思いつかないのだけれども、というかそもそも無生物を相手にした段階でもはや「性的」ではないのだが、それに類するものがあるとすればフェティシズムだろうか。
参考:世界の5大ありえないフェチhttp://gigazine.net/index.php?/news/comments/20090318_5_fetishes/
例えば非生物(コンセントとか)に対して「攻め」「受け」概念を適用させていく腐女子の想像力も、それが性的な欲望がどうか微妙だが、それと似たようなものだと考えてよいだろうか。
彼ら物を対象に欲望を満たしていくタイプの人たちは、対象を性的な存在でないものとすることで、性を巡る責任の空間からうまく逃れているのではないか、という気もする。


「人」を「物」のように扱うことで、暴力であるとか倫理的な問題が発生する。おいも屋にならんでいるDVDという形式において、「少年・少女」は「物化」している。もちろんおいも屋だけがどうこうではなくて、アイドルのように人そのものがなんらか商品化されることにおいて、常に倫理的問題はつきまとっている。
一方、オタク的想像力は「物」を擬人化していく。先述の「攻め」「受け」でもそうだし、「びんちょうタン」をはじめとする擬人化キャラクターなどもある。そうやって、非生物を人格的存在と見なし、萌えていくことで、安全に、責任を負うことなく対象を消費していくことができる。これは想像力の勝利である。
ただ、同時に重要だと思えることは、そうやって物を擬人化していく過程で、物が主体として立ち現れるということだ。我々が人格的存在として扱うことで、それが愛すべき、代替不可能な存在として立ち現れるということ。映画「ラースと、その彼女」でも明らかだが、我々が、ある対象に固有性を見出していく、その能動性にこそ倫理の可能性が存在するようにも思う。
人と物を峻別していく危険さというのは、簡単にそのラインが操作されてしまうことにある。極端に言えば、大人の女性は人だが、少女はまだ十全な意味では「人」ではない、だから陵辱が許される、というようなロジックもありうる。あるいは、ユダヤ人は人ではない、というような差別意識を見てもよい。
人と物という区別に関わらず人格を見出していくオタクのアニミスティックな視点は、倫理的な問題を考える時に重要であるように思われる。そういう想像力を否定する世界観は、どうも、「愛」がないように思える。