パンツをはく意義

おいも屋本舗に行ってきた。
また専門外のことを語ります。多少偏る議論になると思われますが、なにか認識違いがありましたらお知らせいただけると幸いです。

これまでの考察の跡はこちら↓
http://d.hatena.ne.jp/onoya/20070905(少女は大人を見ないでいい)
http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080517(エロの遍在)
http://d.hatena.ne.jp/onoya/20090319(擬人化する想像力)

5ヶ月振りに行ったのだが、このくらいの間隔で行くと変化が見えて面白い。
予想通り、少年のDVDが増えていたのだが、美少年専門のグラビア雑誌「boys on the run」には驚いた。確実に需要があるようだ。↓下記リンクからも見られる。
http://www.bidders.co.jp/user/8533642/d/
東欧・アジアの少女を扱ったDVDも目に付いた。アジアは中国とか、カンボジアとか。なんだか売春の世界の匂いがしてくる。
イメージとして、エロのフロンティアがどんどん広がっていっている気がする。
標準を日本の少女とすると(この時点で標準も何もあったもんではないが)、
→①露出面積の拡大
→②対象年齢の拡大 
→③間接表現の直接表現化
→④地理的な拡大 
→⑤対象の性の拡大 
という5つのベクトルをさしあたって指摘できそうだ。
①、②、③に関しては以前から指摘してきたものだが、改めて確認してみる。興味深いのは①〜⑤のいくつかが相互に関係しあっていることだ。


①露出面積の拡大
このフロンティアはもう開拓されきっていると思われる。女性器と乳首だけ隠せばいいというルールは、逆に言えばほとんど何も隠さなくていいと言っているに等しい。修正するには線のような水着がありさえすればいい。低年齢であれば陰毛がないのだから、隠さなければならない面積は限りなく小さいのだ。


②対象年齢の拡大
これもほとんど開拓されきったのではなかろうか。4歳あたりまでの商品が出て、もはや拡大される余地はないように思われる。低年齢にすることによって、表現を自然にするというメリットはあるだろう。以前書いたが、「お風呂で遊んでいるのも、ちょっとスカートがめくれてしまうのも、子供どうしがくすぐりあっているのも子供にとっては全く当たり前のこと」だから、不自然なものにはならないということだ。


③間接表現の直接表現化
バナナを食べるとか、アイスキャンディーをなめるということが、ほとんど間接表現(メタファー)ではなくなっている気がする。それがU15における性表現として定型化しているのではないか。


④地理的な拡大
ヨーロッパの少女を対象とした作品は知っていたが、今回初めて見つけたのは東欧とアジア(中国とカンボジア)。これは少女の低年齢化が問題になった際の、「〜歳」とか「小学〜年生」といった記号と同様、都合のいい差異化記号として機能している印象だ。つまりは、「ほんとうにそう」でなくてもいいということだが、年齢よりは肌や髪や顔の方が明確な差異として見えやすくはあるだろう。


⑤対象の性の拡大
少年のDVDにおいてもバナナやらアイスキャンディーというモチーフがある以上、これが男性向けの商品であることは明らかだ。
少女ではなく少年を撮ることによって、表現の幅というか、新たな試みは出来る。例えば、生々しい話だが、勃っているのではないか、という撮り方ができたり、少女では写せない乳首を撮ることができる。極め付きは、少年に少女用のスクール水着を着させた上で、乳首をはみ出させる、という裏技が使えるということだ。少女では開拓できなかった地点に、少年を少女に偽装させることで達した表現。



さて、以前も問題意識として取り上げた、無垢・清純さを称揚するか、意のままに過激に陵辱するかという対象への態度の問題を問い直したい。
U15においてある領域が初めて開拓される場合、基本的にはそれは無垢・清純さを求めるものであろうと思われる。低年齢化も、地理的な拡大も、あるいは少年を対象とすることも、清純さ、純粋にかわいさを求めてのもの、つまりは、性的に消費をすることを目的としないものとして志向されるだろう。しかし、その開拓の直後に、というかほぼ同時に、その対象を陵辱したい、性的な対象として直接的に消費したいという欲望も、あたかも純粋さを求める志向性と表裏一体であるかのように生起する。そのため、開拓された領域においてエロを直接的に追求した商品がすぐさま生まれ、その領域としてのイメージの清純さを失ってしまう。となると、再び新たな領域を開拓しなければならなくなる。そういうサイクル。
簡単に言えば、ある領域において、「清純」→「清純だけど実はエロい」→「エロい」→「すごいエロい」という方向性がある。この方向性は、U15の雑誌の表紙を見るだけでも見て取れる。
一方で、そうではない方向性もある。無垢ではなく、直接的なエロでもなく、婉曲的なエロを創造していく試み、ひとつの領域を虚構として確保していこうとする試みがある。例えば「着エロ」という領域は、あえて着ることでエロスを醸すものであるし、コスプレもそうだ。バナナを食べさせたり、笛を吹かせるというのも当初そういう試みであったはずだ。「間接表現の直接表現化」で述べたように、この方向性にも常に表裏一体のものとして過激なエロ化が絡み付いていて、だんだん表現が婉曲ではなくなってきたりもするだろう。
しかし重要なことは、無垢を求める志向性が、そのライン(年齢であったり対象であったり)をどんどん外へ広げていこうとしていこうとするのに対し、虚構を創造していく試みは、我々の能動的な操作に依存するということだ。つまり、対象を代えるか、対象を変えるかの違いである。
「エロ」というものを、露出度や年齢、行為の過激さというある基準に押し込めて判断していった場合、「最エロ」なるものがあたかもあるかのような、ひとつの垂直的な序列が想定できる(エロの量的な判断)。これに対して、いろいろな衣装に身を包む着エロやらコスプレというのはその衣装による序列ははっきりしない。あくまでエロが質として異なるのだ(エロの質的な判断)。
エロというものがあくまで身体的な感応から逃れられない以上、量的なエロは当然必要になってくる。しかしそれだけでは我々は際限なく開拓をし続けなければならず、また倫理的な問題も発生しやすくなってしまうように思われる。実際、もし何の規制もなく表現できたとして、女性器を顕わにすれば最エロが達成できるというような問題でもないのだ。そうした最エロへと至る垂直軸をむしろ隠蔽した上で、横並びの質的なエロから、エロスへの架橋を試みる不可能な欲望の意義を忘れてはいけない。パンツの中が想像のものにとどまる以上、パンツの中は無限の可能性に開かれているということだ。(これはハロプロ的に言うと、「石川梨華の入るトイレの扉を開けてはいけない」ということだ。)
不可能なものをあえて求めるというその点では、少年を対象にしてエロを追求するDVDの存在は、言い過ぎだとしても、歌舞伎において女形にこそ女らしさがあるとするような話と似たものを感じてしまう。
いずれにしても、エロを語るときに、少なくともひとつの「最エロ」なんかには収斂しない複雑な要素の絡まりが存することは無視できない。