生ガッタス

もう先々週のことになるが、Gyaoの生ガッタスでのいしよしのコメントが印象的だった。
「フットサルを始めて一番嬉しかったことは?」の問いに、「台本とかのない生(なま)」に惹かれるという答えと共に、サポーターが彼女達へと向ける視線の質についても触れる。はじめはライブ的な盛り上がりであったものが、「フットサルを見てくれている」ようになる。いいプレーに対して拍手をするようになる。
そして、極めて重要な事実に石川が言及する。アイドルの現場では「よっすぃー・りかちゃん」と呼ばれるが、フットサルの現場では、次第に「吉澤!石川!」と応援されるようになったことがうれしい、と。
「アイドルの固有名詞」(http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080114/1200333555)で述べたように、アイドルの実存的負荷を軽減するために、浮遊する固有/普通名詞の中間形態としての芸名(ニックネーム)の使用と、人間としての彼女を守るための実名(固有名詞)の使用の区別が重要だと僕は思う。その一つの好例として、この、アイドルとフットサルプレイヤーの区別というものがあるのだと改めて思った。
アイドルはその現れそのものが見られるもの。それそのものが愛されるもの、であるがゆえに、その根拠のなさ、寄る辺のなさが実存的な危機を引き起こす恐れがある。であれば、もっと明確に評価の基準がある価値世界の中にもアイデンティティを見出しておく必要はあるだろう。で、フットサルがそうした居場所として機能するということだ。
ただいればよい(存在の絶対的肯定)というのではなく、なにをしたか(いい/悪いプレー)で評価される世界。これは人間界である。「よっすぃー・りかちゃん」という絶対的なアイドル肯定ではなく、スポーツプレイヤーである人間としての「吉澤・石川」扱い。これがうれしいということ。
「ライブ―フットサル」という場の差異によって彼女らの存在形態の認識を換えることは、ヲタにとっての作法であると思える。そうすれば我々はアイドルに無用な負荷をかけずに済む。
「虚構の階層化戦略」(http://d.hatena.ne.jp/onoya/20071011/1192122662)では、「アイドル(虚構)―人間(現実)という構図を我々が見てしまうとき、アイドルは危機を迎える可能性がある」と書いたが、このフットサルのケースでは、アイドル(虚構)―フットサルプレイヤーである人間(現実)という構図に、プライベートな部分の現実が隠されるかたちとなって、結局階層化自体はうまくいっている。(この期に及んで、「虚構の階層化」と言おうが「現実の階層化」と言おうがたいした違いはないように思われる。)
ここでは、二つのことが問題になっているように思われる。一つめは、アイドルという職業を人間がやる場合、形式的に愛されることと、意味的に評価されることのバランスがとられないといけない、ということ。そして二つめは、(もしかすると一つめの別な表現に過ぎないのかもしれないが、)少なくとも「アイドル=アイドルを職業にしている人間」というようなアイデンティティの持ち方は危険で、いくつか居場所を(大げさに言えば)多重人格的に確保しておかなければアイドルは長く持たないということである。「キャラ」という言葉が跋扈するのは、それが現在の都会人に共通する課題でもあるということの反映であろう。