レスへの希求

ヲタの実存的問題として。
今日はひたすらなっきぃにがっついていたんです、スケブをずっと持って。別にスケブに面白いこと書いてるわけじゃないんです。ただ「なっきぃ」って書いて、なっきぃ推しであることを不器用にアピールしているだけ。だって、なっきぃタオルもなっきぃTシャツも持ってなかったのでそうするしか認識してもらう術が無いのだ。特に何かをしてくれ、ってなもんじゃないので、明確にレスをもらうというのでなく、視線をもらっていることを信じて嬉々とする、という図になる。まあ今日は2列目だから、明らかに見てもらえてはいるのだろう、という確信が僕を安心させる。
どうしてこんなにレス(視線)がほしいのだろう、と帰りに考えた。
僕は日常、仕事をしている。仕事は否応なく金銭と結びついている。労働と貨幣が交換される。一人暮らしの僕は、コンビニで買った弁当を食べる。その弁当は大量生産され、愛の代わりに添加物が大量にまぶされ、人々の嗜好に最大公約数的に応えた味付けがされている。僕はそうした生活の中で、自分が「人間」という普通名詞になっていることに気づくのだ。生活が全て交換可能なものに囲まれて、僕自身が交換価値の一つに過ぎないという感覚に襲われること。全ての行為が貨幣へと接続される生活。「私」という固有の存在のためのものがない生活。
その日常を離れ、個体として認識される「私」を確認すること。情けなくも大仰に言えば、レスへの希求はそういうことである、と言えるだろうか。
レスは貨幣を超える。なぜなら、レスはコンサートのセットリストに含まれていない、その場でアイドル自身の意志で行われる行為だからだ。ライブの構成から独立した、アドリブ、その点でコンサートの料金に含まれていない、余剰である。それを愛と呼びたい。これには容易に反論が用意できる。「いやいや、アイドルがそういう反応をすることも仕事に含まれているんよ、だから、なにイッちゃってんの、それも金のためなんだよ」と。僕自身去年確認したことだが、(「感情労働者」は「アイドル」である http://d.hatena.ne.jp/onoya/20070612/1181673942を参照のこと)顧客を固有の存在として認めていることをアピールすることは、現代の「感情労働」において重要な戦術である。だからこうした、固有の存在として認める振る舞いも貨幣経済に回収されていく。だけれども、それが回収し切られてしまうかどうかは自明ではない。常に貨幣経済を超え出ようとする動きと、それさえも囲い込もうとする貨幣経済とのせめぎ合いが起こるだろう。僕はそこに希望も絶望もあると思うのだ。
アイドルがレスをくれる行為は、少なくともその瞬間は僕に対しての、「私」対「あなた」としての振る舞いだ、と信じることに希望がある。それさえも金のためだ、と思うことに絶望がある。ひるがえって自分のことを考えれば、「顧客のためを思って労働する」のが希望、「顧客のためを思っていることを感じてもらうように労働する」のが絶望である(実際こう振る舞っている自分を感じると自己嫌悪を起こす)。ここらへんは「モーニング」連載の転職マンガ「エンゼルバンク」でも書かれているんではないかと思う。
貨幣(あるいは他の社会的価値)のために働いているんじゃないと思えるかどうか。自分においてもアイドルにおいても、そこがポイントになる。保身なのか、献身なのか、そのせめぎ合いの中で人は生きる。でもそのせめぎ合いが、起こらない可能性もあるだろう。自分のため、と、他者のため、が合致すればいい。楽しそうに歌って踊るアイドルは、僕にそういう希望をくれる。他者のためであることを自分が本心からしたいと思うこと、または、自分のしたいことがそのまま他者を幸せにすること。
ライブの最後で、幕が下りる前になっきぃは僕の方を見て微笑んだ。それは僕を固有の存在として認めてくれる「愛」なのだと信じてみる。そして、感情労働の同志として、彼女に対しても固有の存在として愛してあげたいと思う。「中島早貴」を愛することが重荷になるなら、僕は「なっきぃ」を精一杯愛そうと思う。