ガチの空間から生まれる倫理の可能性

お台場冒険王ファイナル・フットサル「Gatas CUP 2nd Round」
シンデレラがヲタ向けではないので、迷った挙げ句ガッタスを見にいく。
しかしながら、ガッタスも、どうなんだ、これはヲタの空間なのか、どうなのか、と戸惑った。
それは、ネタ化、メタ化できない、という意味でだ。
今年になって何度か書いているので繰り返しになるが、ライブは彼女達自身が作品(虚構)となる場だから、彼女達はニックネームで呼ばれ、彼女達が「何であるか」が問題となる。極論すれば、パフォーマンスが悪くても、彼女たちがいさえすればよいという側面もある。「アイドルである」という点さえ守られれば、「何をしたか」はどうでもよい、というか、何か失敗したらそれもかわいい、という点で、様々な解釈可能性に開かれている。そういう意味で、メタ化できる。要は評価基準が統一されていないからいろいろな楽しみ方があるということだ。
一方、ガッタスの現場は、彼女達が「何であるか(=アイドル)」ということは相対化され、「何をしたか」で評価される。それはスポーツにおける勝敗という厳然たる結果として現れる。これは、ライブがよっぽどのことがない限り失敗にはならないのと対照的だ。彼女達は実名を呼び捨てで呼ばれ、一般人と身体をぶつからせてガチの勝負を繰り広げる(まあもちろんメンバー起用に恣意性は紛れ込むけど)。そして我々はガッタスの勝利のために応援する。そういう方向で、統一されている。色もオレンジで統一されている(残念ながら僕はなっきぃタオルでオレンジを代用)。そこに解釈の多様性はない。もちろん勝負以外に、メンバー個々の様子を楽しむことはあるけれども(例えばミキティの機嫌はどうかなとか)、勝敗が第一であるという階層性ははっきりしている。ピッチ上も、客席もガチなのだ。(こちらも参照のこと→http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080406
僕は、そういう雰囲気をヲタらしくないな、と思う。普通に、サッカーのサポーターだなあ。試合中に、ガッタスにメンバーに対して、茶化したり、変なコールが入ることはない。ただ一度だけヲタらしかったのは、藤本がチャンスに決められなかった時に、「えーっ!」という声がそろったくらい。それ以外は、みんなひたすらガッタスの勝利のために応援する。普段のヲタの現場と比べたときの違和感に僕ははじめ大いに戸惑った。ただ、彼女達が試合前、試合後にマイクを持ったときだけは、ヲタの反応もいつものヲタらしくなる。これを見るとガッタスって、Perfumeのとっている戦術に近いのではないかと思う。
複数のイメージを、お互いがお互いを相対化する形で自らのうちに含みこむということは、現代において必要な戦術であろう。もし、それらが単独でのみ存在していたら、たちまち彼女達は脆弱な存在となってしまう。例えばPerfumeにおいて、MCで「ぶっちゃけトーク」をするメンバーは、いつもそれだけをしている存在だったら、「いや、でもそれは本音じゃないだろう、もっと裏があるはずだ」という疑念の目を逃れることができない。それが、「楽曲では機械的な振付をしている虚構的な存在」が広島弁で「ぶっちゃけトーク」をすることで、それが現実だ、「ほんとう」だ、という信用を得てしまうのだ。逆に、「機械的なイメージ」だけが先行するとどうなるか。「本当は人間のくせに」「音声を操作してる、ちゃんと歌ってないじゃないか」という非難の声が生まれてくる可能性がある。ところが、人間味のある状態を「ネタばらし」することで、楽曲のほうでの彼女達のイメージをうまく「作品化」することに成功しているのだ。まとめると、楽曲では彼女達は「作品」として虚構的・記号的に「あり」、イベント現場やトークの場面では、彼女達は「存在」として現実的・身体的に「いる」。このバランスの絶妙さによってPerfumePerfumeたりえている。
ガッタスにおいては、逆に試合中に身体性が強く押し出され、彼女達の「存在」が明らかになる。それがMCになると、彼女達の「キャラ」が押し出され、ニックネームで呼ぶべき虚構の空間が垣間見える。そんな形でのバランス。いずれにしても、複数のイメージを含み持つことで「アイドル」が成立しているということ。ここには注目しなければならない。


ガッタスサポーターは基本的にマナーがよくて、あまり無駄に声を出すことなく統制が取られているし、試合が終わった後は敵チームの名もコールしてねぎらったりする。それは、ガチの空間における倫理、ということを感じさせる。ライブ空間という様々な解釈可能性に開かれた、逆に言えば何でもありの空間と比べ、勝負というただ一点において、厳然たる結果が現実としてつきつけられるスポーツの場の方に倫理の可能性がありそうに思う。例えばもしガッタスが負けてしまったら、サポーターはそれをネタ化することができそうにない。むしろそうしたときこそメンバーを人格的存在として強く意識し、他者を思う倫理が生まれることだろう。
面白いことに、選手退場の段になって、ガッタスメンバーがピッチ上を回って観客席の前に来るとき(正しく言えばその直前だが)、サポーターはやっぱりヲタに戻って、他人を押しのけて最前列手すり前の空間へと自分の体をねじ込んでいく。僕の前の席にいた若くはない女性サポーターも、スケブを持って男達の間に自分の体をむりやりねじ込んでいった。まあ僕もなっきぃがいたら明らかにやっているんだろうことだ。
あれほどガッタスへの他者愛に溢れていた試合中と、退場時にレスをもらいに行くなりふり構わない自己愛と。
ガッタスの現場って、アイドルへの/ヲタの倫理のヒントが得られる気がするし、また、「人間見たわぁ〜」とも思う。きれいなところも、抗えない欲望も。