アイドルがバカであることについて

先日のエントリは諸々反応をいただきましたが、言いたいことは、コミュニケーションそのものが目的化している人間や、目的化する場面が、(自分も含め)増えているのではないか、ということです。そのことを強調したかったがために、歴史問題に関してうんぬんすることは避けました。最終的に制作陣が謝罪するのは妥当だと思うけれども、そこまでに至る盛り上がり方がなんだかおかしいという違和感があったわけです。
ところでぼくは先日も書きましたが、歴史は単純に何でも相対化できるとは考えていないし、すべきではない、という倫理観です(どうも誤読されていそうですが)。
もうひとつ、考えていかないといけない問題は、アイドルがバカであることについてです。これについては、実は非常に難しい問題を抱えている。
ぼくはアイドルがバカであることは仕方がないと思っている。だけれども、アイドルがバカでいいと思っているわけでもない。例えば、珍解答するアイドルばかりが跋扈する事態は健全ではないと思っている(http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080105/1199553600)。でも、一方で、アイドルという存在がまともな人格を持つことへの信用はない(http://d.hatena.ne.jp/onoya/20070525/1180119642)。アイドルが一般教養を持ち合わせていて、演技や歌の能力が高くて、という万能性を示したら、それは基本的にもうアイドルと呼べなくなってくるのではないかと思う。例えば松浦亜弥をぼくがアイドルと呼びたくないのは、もう歌手としての才能が、松浦をどうしても歌手にしてしまうからだ。
アイドルがなんらかの形で欠如を抱えるということ。これはアイドルの必要条件であろうと思う。その欠如(=弱さ)に対して、我々は共感や同一化という志向性を生む。それでいながら、アイドルはその美(あるいは他の何らかの点)において人間を超越する。そこに我々は憧れとか希望とかを抱く。つまり、アイドルは人間の現実と理想を架橋してくれる存在としてある。
話を元に戻すと、アイドルがあまりにも才能や知識を持つことは、欠如を感じさせなくなるということにおいて、アイドルの危機であると言える。中川翔子がアイドル足りえるのは、確かに知識は豊富であるけれども、その知識分野が瑣末なもの(オタク的)であるからだ。みんな、少なくとも中川翔子がまっとうな人間ではないと分かる。人間として、なんらか、欠如している。
ただ、アイドルにおけるその欠如が、「一般教養・知識がないという意味でのバカ」である必要は、確かにない。その点で言えば、やはり、「よろセン!」の番組の作り方は考えないといけないかもしれない。先日「大したことじゃない」と書いたけれども、それは撤回しないといけないかな。アイドルがもしバカであったとしても、それをあえてテレビで露呈していく必要はないのだと思った。