虚構の階層化戦略

それぞれのファン研究―I am a fan (ポップカルチュア選書「レッセーの荒野」)

それぞれのファン研究―I am a fan (ポップカルチュア選書「レッセーの荒野」)

読み終わる。面白い。
コミケ、格闘技、宝塚、ジャニヲタなど、様々な分野のファンを、自らもファンである研究者が分析していく。
その中でも宝塚の章が興味深い。
『「宝塚」では、舞台で演じられる関係と、オフの領域で提示される劇団員同士の関係が重ねあわされることによって、虚構の世界に互いにリアリティを与えあい、支えあう構造が存在するのである。』
やはり、虚構の世界内で階層を分けることの重要性。宝塚においては「虚構」に属する「舞台」―「オフの領域」という関係があり、「現実」の劇団員はとりあえず問題にはされない(少なくともこの論考では「現実」の劇団員を追いかけるファンの存在は扱われていない)。
Perfumeにおいても、歌を歌う場における機械のような表象と、MCの時の人間、というギャップの激しさから、「ほんとうはどうなんだろう」という問いを巧妙に隠蔽できている。
久住小春の場合も、月島きらり久住小春という階層に分かれることによって、虚構世界におけるリアリティが増し、現実における人間の久住小春という存在感が希薄になる。
本来娘。もそういう存在で、表も裏もテレビで扱ってます、みたいな感じでASAYANはやってたわけだが、そういう虚構の階層化が最近うまく行ってなくて、週刊誌に「現実」の方をほじられたりする。ラジオとかブログとかそこらへんで、アイドルは虚構の階層化をしていくことで、自らの「人間」の部分を守っていかなきゃいけない。「二人ゴト」なんかをやっていた2004年くらいまでは、まだうまくいっていたんだろうけど。
虚構の階層化を行うにあたって、アニメとのコラボレーションは一番理に適っているように思う。アイドル(虚構)―人間(現実)という構図を我々が見てしまうとき、アイドルは危機を迎える可能性があるが、アニメ(虚構)―アイドル(現実)のように、本来虚構であるところのアイドルを「現実」と見られるような「虚構の階層化」ができれば、アイドルをそれ以上ほじくられる危険性が少なくなる。文化祭での「アニメ広場」は、この意味でこれからのハローだとか、アイドルのあり方を象徴しているかもしれないと思った。