「しゅごキャラ!」を読む少女

「キャラ化するニッポン」 (講談社現代新書)は読む気がしない。
その代わり、この前「しゅごキャラ!」をネットカフェで4巻まで読み切る。
しゅごキャラジョジョで言えばスタンドみたいなもので、普通の人には見えない。 なりたい自分が守護霊みたいな感じで具現化したもの。少女マンガらしく、しゅごキャラの存在と思春期の内面性が絡んで描かれる。そこに見えるように思われる矛盾。
「クールで強くてかっこいい イケてると言われていても ほんとはそんなでもないし フツーに女の子だもん」という側面、つまり素直なありのままの自分。
だけども、「なりたいあたし」が具現化したしゅごキャラと「キャラなり」するのは明らかに変身行為。
このマンガでは(現実でもそうなのだが)、自分の状態を3つに分類できる。まずは「周りからそう思われているところの自分」(=クールで強くてかっこいい)。そして、「自分がこうだと思っているところの自分」(=フツーに女の子)。もうひとつ、「なりたい自分」(=しゅごキャラ)。ではこのマンガでは、あるいはこのマンガを読む少女達は、「現実の自分」と「理想の自分」のどちらを志向しているのか。…おそらく、両方である。その矛盾したような気分こそが思春期、と言ってもいいだろうか。
僕は6年前に、「SPEED」と「娘。」の歌詞の比較を行ったが、「SPEED」に関しては以下のように書いた。
『こうしてみると、スピードの「私」は、ありのままの、自分らしい自分というものを、「本当の自分」、つまり理想の自分という意味として必死に追い求めるので、現在の自分と理想状態の自分は必然的に乖離し、そしてまたそうあるなかで漸進的な変化によって理想に近づこうとするのではなく、現在の自分を否定する何らかの跳躍によって理想を目指していると言えるだろう。』
ホントのじぶん」って、厄介な言葉で、「現実の自分」も「理想の自分」もどっちも指示しうる言葉だから、知らず知らずに自らに負担をかける。「自分らしく自分らしく」「本当の自分」を見つけなきゃ、と駆り立てられる結果、多くの少女は「漸進的な変化」ではなく、「変身」を求めるようになるのだろう。「しゅごキャラ!」においても、主人公は内面的な葛藤こそすれ、なにか努力と成長の結果で「キャラなり」をしているという感じはしない。
「なりたいようになればいいじゃん」と言われても、現実はマンガみたいにうまくはいかない。現実にはしゅごキャラはついてないのだ。だからこのマンガは、確かに少女を応援するものではあるが、現実においてどう振舞うべきか、逆に迷わせるかもしれない。そんな中で、結局多くの人は虚構の世界に埋没することになる。少女の様々な変身願望が「しゅごキャラ!」には組み込まれている。少女の背伸びした恋愛願望(設定として「耳が敏感」ってのもどうかと思う)、アイドル「ほしな歌唄」の存在、小学校のアイドル的存在「ガーディアン」の設定など、「なりたいなにか」にあふれている。
少女って大変だ。
僕は就職活動のことを思い出す。手招きはされるのに、そこに入れさせてはもらえない、っていう釈然としないストレスの蓄積。そうしたいかどうかは分からないのに、必死でそうしたいことをアピールしなければいけないという、自分を引き裂かれる感覚。
人間って大変だ。