うたばん的料理法の限界?

石橋貴明という人は、メディア上にいながらにして我々の代弁者でもあるという特異な存在である。
リアルタイムでは見ていないけれども、「おニャン子」の頃から石橋はそうだった。
昨日の「うたばん」での石橋の発言もヲタ的である。「味が薄い」とは数年前から言っているし、「料理しようと思ってるのに料理されちゃうじゃないか」とか「だって不信感がすごいんだもん」とか「好きなヤツ好きなヤツ居なくなっちゃうんだもん」とか。飯田に「やりやがったなぁ〜」って言えるのは、やっぱり石橋だけかなあ。


結局飯田中心の番組構成になるわけだが、これへの賛否両論。
僕は仕方のないことなのかなと思う。うたばんスタッフの愛。ここまで物語を引っ張ってくれていること。5,6期中心のメンバー構成になってからの娘。は「うたばん」において、クイズやゲームといった企画への単なる参加者へと堕してしまった。アイドルであるならば、彼女達自身が「コンテンツ」でなければならないのに、彼女達が「コンテンツ」への参加者でしかないという状況。彼女達自身の魅力はなかなか表れてこないという状況。「味が薄い」ということはすなわち、「コンテンツ」としての弱さである。それは何に起因するかといえば、アイドルが必死に見えるかどうか、ということになるのだろうか。飯田も保田も矢口も、生々しかったし、必死に見えた。メジャーアイドル化した後の5期・6期は、洗練され、生々しさを比較的隠蔽した。そして「生身性」の隠蔽から、虚構化への流れ。ミニモニ。とアニメのコラボレーションとか。
「キャラ」が立つということ、それはそれでいいのだが、初期の娘。に比べて、娘。は「仲がよく見える」ようになってしまった。番組を構成するにあたって、ただ仲のいいアイドルグループをコンテンツにすることは、「味が薄い」。せいぜいクイズの企画でもして、「天然ボケ」という都合のいい果実だけもらっておこうというくらい。
ただ、そうした中でも、中国人メンバーの加入には光明を感じる。「うたばん」だったら、中国人メンバーVS日本人メンバーの抗争を煽るくらいしてもいいのじゃないか。中国人を思いっきりひいきするか、思いっきりいじめるか。うたばんスタッフの愛には感謝しつつも、そろそろ現モーニング娘。で物語を紡ぐこともしてほしいと思う。…できれば、としか言えないが。
きら☆ぴか」がうたばんに出ればいいのに。小春に石橋が「Aカップ?」って聞いてくれるだろう。アイドルを困らせろ。徹底的に苦しめろ。メディア上でアイドルが必死になっていなければ、メディア外でアイドルが困ることになるのだから。僕らはあまりにも思い知っているのだ、「アイドルは死にそうになっていないと生き生きしない」という逆説を。


中川翔子の手法。それは、プライベートを開示しているように見せることでアイドルイメージを自らコントロールすることだ。初期の娘。は、ASAYANで舞台裏を映すことで、深みあるアイドルイメージを作り上げることに成功した。
一方、最近の娘。は行儀がよすぎた、のか、虚構化で身体性が剥奪されたからか、その反動でアイドルを殺すほどの身体性が暴露されてしまう。メディアに完膚なきまでに料理される前に、僕らが料理できるネタを提供してくれ、というのは無理な話なのか。
打開策としては、中川翔子に比することのできる嗣永桃子の存在は一つのヒントになるだろう。自然の恵みに感謝し、畏敬の念すら抱きながら、美味しくいただきます、というイメージ。そこにおいては料理する者はアイドル自身である。我々は、出来あがった料理を食べるのみだ。自らを料理して食べさせてくれるアイドル。僕らは料理をする必要がない。ただひたすら「すげー」と思いながら食べるのである。究極的には、セルフプロデュースするアイドルとヲタとの、夾雑物が何もない理想的な関係がそこに生まれるだろうか。いやー、それも違うような。そもそも僕は、嗣永を推せないのだ。