わたしが右ならきみは左

〜MAGICAL CUTIE TOUR〜
8/13(月) 福岡国際会議場メインホール 開場:17:30 開演:18:30

…だいぶ無茶なものに申し込んでしまった。
前回2月のツアーの握手会では、舞美に強く握られて頭が真っ白になるという醜態だった。いかんですよ。
それにしても、握手会とか「タッチ会」とか、「さわる」という行為を、僕らはどう捉えればいいのだろう。握手会って、バカだなあ。
握手という行為によって、僕らはアイドルと同一化するという欲望を完全に否定される気もする。さわるという行為は、決定的な他者性を露わにするんじゃないのかなあ。さわるってのは、それ自身ではないものに対して言うのだ。そしたら、僕は萌えを同一化の欲望だと思ってたりするんだから、握手会ってのはむしろ萌えの否定ということになる。
でも、僕はナッキーと握手したらホワ〜ンとなるに違いないとも思う。ところで僕が惹かれるもの(辻、℃-uteの舞台、ナッキー)というのは、解釈可能性に開かれたものである。辻に惹かれる僕は、辻が何者でもなく、何者でもあるという点に惹かれるのだ。ナッキーに惹かれる僕は、かわいいのか老けているのかよく分からない顔と、ひとりでハモったような声に惹かれるのだ。解釈可能性というのは、僕の夢だ。ここにヒントがあるか。アイドルが他者であり、同時に自分でもあるということがありえるか。
握手をする刹那に、決定的な他者性と、距離ゼロの同一性を同時に感じられるか。アイドルと対峙したときに、それが鏡に映った自分だとも思うのだろうか。それはだいぶ愚かしい。愚かしいついでに、鏡写しだと思うなら、右手を差し出されたら左手を差し出したらいいのだ。そしてなにもしゃべらないで見つめあえば、鏡に映ってるかのように思えるかもしれない。何を書いてるか分からなくなってきた。それとも、僕はもしかしたら、「ナッキーになりたい!」と言ってしまうかもしれない。7人と握手しながら、「まいみになりたい!」「まいまいになりたい!」…と続けていったら痛快である。そうしてみたい気もする。「好きです」というより、「応援してます」より、よっぽど自分の感覚を的確に表現できる。
アイドルとヲタは対照的だ。だけど(それゆえ)、ヲタはアイドルになりたい。アイドルはヲタがいなければ存在できない。


「正反対だけど なんでかぴったりくる 磁石のNとSみたいだね」