「ぱい」〜美勇伝の谷間〜

美勇伝がついに活動を終了する。サイリウム企画に乗っかるべく、渋谷のハンズに行ったら、やっぱり紫のサイリウムだけ極端に売れている。
雨の東京厚生年金会館。2階13列左サイドから見下ろす。
開演前から「美勇伝最高」コール。思い思いに鳴く、というんじゃなくて、統一感をもって開演を待つ雰囲気。
一曲目の「恋のヌケガラ」からなんか泣きそうになる自分。いや、そんなに思い入れがあるわけではないのだが。
じゃじゃ馬パラダイス」と言い、「愛すクリ〜ムとMyプリン」と言い、ヲタが支えてあげなくてはどうしようもない、と思わせる曲が、今宵は愛しいし、名曲だと思える。
銀杏〜秋の空と私の心〜」が始まり、美勇伝のメンバーが段のところに座り、前傾気味で歌いだした途端に、ノリノリだった両脇のヲタが双眼鏡でステージを凝視し始めた。確かに、美勇伝はおっぱいアイドルでもあるのだ。
3年前に、「岡パイ」について語ったことがある。(⇒http://d.hatena.ne.jp/onoya/20050529/1117478836) 当時はまだ胸の谷間を強調しているのは岡田唯だけだった。それが、「一切合切」あたりから他のメンバーの衣装も露出が多くなり、「Myプリン」で行くところまで行ってしまったのだ。今振り返るなら、別にそれはそれでよかった(と言うしかない)。
おっぱいの乳首が見えない状態というのは「ぱい」と言い換えてよい。やわらかさのみが表現されていればよい。肝心の(「肝心の」と言っていいと思うが)乳首が見えない状態の「ぱい」というのは、もしかしたら乳首が見えるんじゃないかと視線を集めるというような類のものではない気が一見する。だって絶対見せないもん。
ところで「ぱい」はその大きさを谷間によって間接的に知覚させる。だから谷間を作るような衣装での登場となるわけだが、その谷間やら、露出されている「ぱい」の表面積が年を経るごとに強調されていく。だが、乳首は絶対見えない。不可侵の領域が確定しており、そこに向かって漸近線を描いていく運動。円周率π(パイ)を求めようとしても永遠に確定できないような、そんな不可能性への欲望がそこにはある。絶対に見えない、からこそ見たい、けど見えない、みたいな循環。だから、安易に乳首を見せてしまうようなことがもしあったら、それは野暮なことで、不必要なことで、我々のルールを破るものだ。その禁忌というのは、アイドルを守っているようで、ヲタを守っているようでもある。
僕はハローに「ぱい」を求めていないので(むしろ「おっ」を求めているのかも)、特に「ぱい」を凝視するでもなかった。僕が感じたのは、「ぱい」を過剰に強調し、完全にそうしたアイドルを演じることで、彼女達の人間としての現実的側面はうまく守られていたのではないかということだ。
恒例の人形劇はとてもよい出来で、素直に楽しむことが出来た。今回は岡田の人形の分身である「予備」の人形が出てきた。「予備」の人形はもうひとつの人形の分身であり、その人形はアイドルの分身であり、ステージ上のアイドルの振付にヲタは同調し同一化を図ろうともする。その混交。
紫のサイリウム企画は成功した。最期のMCでの各メンバーのあいさつも感動的。そして美勇伝というアイドルグループは死を迎える。だけどその死が会場にいた全ての人によって伝えられることによって「伝説」となれば、美勇伝は生き続けることになるのだという。逆に、伝える主体となることで、ヲタにも生が与えられる、ということになるのだろうか。そんな持ちつ持たれつ。



「おっぱい」は「おっ」と「ぱい」に分かれる。
「おっ」に力点を置けば、乳首への欲望、つまりは成長への可能性、未来への欲望。それに触れたいと、距離を「0(ゼロ)」にする志向性は、僕にとっては「他者に触れる」というものではなく、他者そのものになるという同一化の志向性だ。それは自己愛。
「ぱい」に力点を置けば、乳首への漸近線を描く欲望、つまりは「不可侵のもの」(=超越性)に近づこうとする、「他者」への欲望となる。近づこうとしながらも、距離を取る(取らざるをえない)「π(パイ)」をめぐる永遠の運動。それが他者愛か。
「0」の自己愛と「π(パイ)」の他者愛、合わせて「oppai」。うまく収まったのでおしまい。