美勇伝コンサートツアー2007初夏 美勇伝説IV〜ウサギと天使〜

中野サンプラザがヲタでごった返している。ん、今日は何かコンサートでもあるのかな、とおばちゃんが階段でだべっているヲタに聞く。「美勇伝です」とヲタは答える。うん、そうなんだけど。僕は美勇伝を知りませんでしたよ、今日まで。ここまでヲタを呼ぶアイドルであったのですね。でも半信半疑で。この期に及んでやっと意識に上ってきたのだが、僕は愛すクリームが結構トラウマになっているらしい。
13列前通路、見晴らしのいいところでゆったり見ようと思ったが、そうはヲタが許さない。となりのヲタが僕のエリアに侵入してくる。しかし、どっちがいけないのか、僕は判断できない。美勇伝紺の前の方でゆったり見ようなどというほうがよほどルールに反する気がするのだ。
1.恋するエンジェルハート
黒マントで登場した美勇伝は、すぐさま真っ白な天使になった。頭上で手を叩くのは愛理の「通学ベクトル」を思わせる。そんなに胸元が開いてない衣装なので安心する。安心するのが正しいかどうかよく分からないまま。
2.キョウモマッテマス
三つ指ついてマッテマス、ということですか。家に帰って石川が天使の格好で三つ指ついて迎えてくれたとして、どうしようか。しかし僕は石川であまり妄想をできない。「マッテマス」の連呼で洗脳されそうな曲。
石川をずっと見ていた。「過剰」という言葉が頭に浮かぶ。過剰。笑顔が、動きが、過剰。人間であるには余りある。人間をはみ出している。確かに途中の曲から何かしらが身体的にもはみ出し気味になるわけだが。そしてまた、「リカチャン!」とコールを入れるたびに、ヲタの頭の血管が一本ずつ切れていく。石川の方には健全な頭脳はあるのだろうか。頭おかしいんじゃないか。ヲタ相手に過剰な笑顔を振り撒く石川の異常さ。むろんこれはほめ言葉。
MC
「あなたのエンジェル石川梨華」と言い放つ石川の目に嘘はない。うがった見方をしたとしても、「何も考えていない発言を嘘とは言わない」というところが限度だ。しかし石川に「何も考えていないアイドル」という解釈は成り立ちがたい。すべてを計算している?プロの仕事ですか。「ハッピーって言えばハッピーになれる」というようなことを言う石川。本当にハッピーそうなんだ。マイクを使わずに、「ハッピー」と叫ぶ石川。わかったわかった。そんなに笑顔で「ハッピー」と言われたら、「ああハッピーなんだ」と思う他ない。そしてついでに自分らもその「ハッピー」とやらを分け与えられるのだ。いろんなアイドルの楽しみ方があるにせよ、「アイドル自身が楽しそうにしているのを見て、こっちも幸せになる」という構図は平和でよろしい。例えば古い話だが、「I WISH」では、「人生ってすばらしい」と歌うのだけれど、「むしろここで歌詞以上にその命題に説得力を与えているのは、娘。が「人生ってすばらしい」と歌い、まさにそれが幸せそうになされることなのである」と昔書いた。ダブルユーだって、「彼女たちが幸せだから、僕らも幸せ」、なんていう楽園だったんだけどなあ。
少し話をそらすが、僕らは一体アイドルがどんな存在であれ、と求めているのだろう。ここで念頭にある二項対立は以下のようなものである。
①普通に恋愛をする女性。
②「普通」の恋愛に興味がなくて、ヲタのことが大好き。
今日の石川は②みたいに見えるのである。それはそれで、異常な女性だよなあ(いやまあそれはもう「女性」とは呼ばずに「アイドル」と呼ぶのだな)。そういう認識で、ヲタは「恋愛」をしているのか?確かに、それを普通の恋愛と同等に扱うのは無理があるように思われる。そこで便宜的に「擬似恋愛」って言葉が当てはめられているんだろうね。もちろん僕は、「擬似」が「擬似でないもの」に劣るとは思わないけれど。要検討課題やね。
VTR〜人形劇〜
美勇伝紺では恒例らしいのだけど、僕は初めて見た。いいですね。ただのバラエティとして申し分なく面白いのです。その上、過剰に読み込むことが可能です。「アイドルが人形である」と。「アイドルがあやつり人形である」と。VTRの最後にそれぞれ自分の人形を操っている美勇伝の3人が映されて、「アイドルが「キャラ」を駆使して自己を演出しているのだ」というネタばらしをしている。さらに言えば、そこに映し出された3人も「アイドル」を演じているところなのであるから、「「キャラを演出している」キャラを演出している」」人間という存在をそのさらに裏に想像することができる。要はここで表している主題(と僕が読み取りたいこと)は、「アイドル」がほとんどの場合なにかしらメディアを介してのみ存在する以上、その表層的な現れの裏(「現実」なんて言われる)を常に想像されてしまう、という宿命である。
「アイドル」は、常に不十分な形において(否定をともなって)現れる、という言い方ができるかもしれない。常に十全ではない形で現れる。メディアを介する以上、「本当はこうなんだろ」という想像から逃れられない。逆に言えば、ある人間が「アイドル」である以上は、どうしてもその人間そのものという形で現れることができないということでもある。どんな場においても、ほとんどの人間から「アイドル」として認識された人間は、そうではなく人間として認識されるということを永久的に保留にされる。それが解除されるのは、「アイドル」としての死を迎えたときである。例えば、抗えない厳然たる身体性が明らかになったとき、すなわち、死んでしまったり、妊娠してしまったりということ(もちろんそれもメディアを介したニュース報道であろうから信じないという可能性もあるが)。…そんなことを、人形劇を見てから考えました。
16.美〜Hit Parade〜
LOVEヒューマニティーという歌詞が気になります。
EN1.愛すクリ〜ムとMyプリン
アンコールまででおなかいっぱいで、すっかり愛すが残ってたことを忘れていた。デザートはちゃんと別腹に入ります。うさみみで出てこられて、まあしょうがないというよりか、もう、よし、みたいな。滑稽な比喩を用いることで(もちろん他の要因もあるけれど)、過剰な身体性の誇張が逆に虚構性を強調する結果になるというのかな、これは冗談で笑っていいんだよというお許しが出ている気がします。ウサギを愛玩する人間のように、自らに全く危機が訪れない安心しきった上から下目線で楽しめる曲と言っていいんでしょう。まあそんな理屈は後からついてくるものなんだけれども。「ウサギ」に対しては上から下目線で、はじめの「天使」は憧れの下から上目線。アイドルへの視線のバランスまで考えてツアータイトルつけてますね。よく分かってる。
EN2.LET'S LIVE!
歌詞の中に「美」「勇」「伝」という文字が使われていて、美勇伝の定番曲になりそうです。それはさておき、「内部」と「外部」というのを感じる曲です。ライブ空間の中で考えれば、「LET'S LIVE!」はそのまま、「ライブたのしもーぜ!」のように響く。そして、外部に視点を持っていけば、「生きよう!」という受け取り方。これは「I WISH」のような位置づけの曲といってもいいし、℃-ute「生きるという力」にも通ずる。ライブ空間から現実へ、虚構から現実への架橋を図る曲ですよ、と。ヲタよ、ちゃんと生きろ、というメッセージなのだと受け取ります。最近こういうの、ハローのライブで強く感じます。
ライブが終わったと思いきや、黒マントをまとった美勇伝が再び現れてまた消えていく。これ、意味不明。衣装の変化「黒→白」ではじまり、「白→黒」で終わるライブ。いやまあ、「アイドル」は裏では悪魔でっせ、っていうニュアンスをどうしても読んじゃうけどねえ。ライブ中だけ白(=純粋・純情・けがれなさ)ですよってね。
なんだか最近、こっちが考えすぎなのだろうけど、ライブのMCやらVTRやら演出やらで、作り手の「アイドルとは」という問題意識を感じさせられることが多いなあ。