「おっ」〜恋月姫の人形〜

マリアの心臓「八月のパラドックス」を見にいく。
僕にとって人形展は、まんべんなく見て回るものでなくて琴線に触れた人形を凝視する(対話する)ものなのだが、今回は二つ。


三浦悦子「少年」
少年?二人が仰向けになっている。頭をお互い反対の方向に向けて仰向けに寝そべっている。それぞれの胴体は上半身までしかなくて、腰のあたりで二人の胴体はねじりあい絡みあっている。上半身だけだから、足はない。それどころか、肩のところで関節が外れたようになっていて、手もない。…と思ったら、胴体の両側に棒切れみたいに並んでいたのが、手足だった。胴体の片側に手、片側に足が、一本ずつ枯れ枝のように置いてあるのだ。
胴体の周りにはブロッコリーやらニンニクやら果実やらねじった形のマカロニが置かれていて、ああそうか、この少年は料理なんだ、食べられるんだ、ということが分かる。ということはこの少年達は死んでいるのか。右側の顔面は、確かに死んだように舌を出して苦悶の表情をしているようだ。
ふと見ると、さっき気づいた足の、足の裏が銀色に光っている。あ、違う。足の裏に埋まった金属がはみ出てきているのだ。で、よく見るとそれはナイフの刃なのだ。そうしてもう一方の手を見てみると、親指を除く4本の指のところがやはり銀色に光っているのが見える。あ、フォークだ。手かと思ったら、埋まったフォークが手を突き破って顔を出そうとしているのだ。
この少年達を、誰が食べるのか。それを差し出された鑑賞者である自分だろうか。いやしかし、フォークやナイフは少年の手足であったのだから、彼らは自分自身を食べようとしているのではないのか。それとも、二人の少年がお互いを食べようとしているのか。不可解である。不可解なまま投げ出されたこの作品から目が離せなかった。


恋月姫「双子のパラドックス
「双子のパラドックス」は二人の少女の人形である。こちらも、肩のあたりで胴体がつながっていて、二人分の十全な身体は存在しない。
僕は恋月姫の人形が好きだ。で、何が好きなのかというと、乳首・乳房の造形なのかなあと思う。乳首というのは、「おっぱい」における「おっ」の部分だ、つまりは突起した、ある程度の固さをもって現れるものだ。その強さ、存在感。その膨らみかけようとする力、その始動の瞬間が好きだ。それは人間の成長、未来の可能性を最も象徴するものなのだ。僕はどうしても乳首にさわりたいと思ってしまう。点に触れたいという感覚。要するに「おっぱい」のやわらかさでなく、固さ、強さの凝縮点に触れたい。(昨年の日記では「触りたいとかじゃない」と書いてるなあ、自分…。)
それはエロの、ある偏りなのかもしれないが、それでも身体性というよりは精神に訴えてくる衝動だなあ。


「八月のパラドックス」の「八月」が何を表すのかよく知らないが、上記二点の展示物から、またペアで展示されていることの多かった市松人形から、さらには人形のそばに置いてあることのある鏡から、僕が感じるのはやはり、「生と死」「自己と他者」「人間と人形」「現実と虚構」という二者をめぐるパラドックスであった。上記二点の人形は、お互いの身体が絡まり存することで、自らともう一方の身体的差異を見出すことができない。その不確定性が、そっくりそのまま人形にまなざす鑑賞者である自分と人形との混交を呼び起こすようだ。その混沌の揺らぎが、結構気持ちよかったりする。