3.アイドルをどう信じるか〜アイドル論⑤四谷スミレ〜

「2.アイドルを信じるとはどういうことか」の続きです。
さて、アイドルへの愛という問題を可視化した作品として、現在BSフジにおいてマンガが実写化されたドラマ「スミレ16歳!!」を挙げることができる。見てない方はこちらで雰囲気をご確認ください。(スミレ16歳!!第1話 ⇒ http://jp.youtube.com/watch?v=KNAXeUGHunM
「スミレ16歳!!」あらすじ:里山学園高校にオヤジが操る人形が転校してくる。学園の理事長がそれを女子生徒と(なぜか)認めているため、その人形―四谷スミレ―と周囲の生徒達の奇妙な高校生活が始まることになる。


このドラマの肝は、人形である四谷スミレが、場面によって2つの現れ方をすることだ。ひとつはもちろんオヤジが操る人形の姿として。もうひとつは、人形を演じる人間(水沢奈子)として。むしろ、ドラマが進むにつれて、四谷スミレは人形の姿のままでは我々の前に現れなくなってくる。あたかもそれが本物の人間であるかのように、そして周囲の人間もそう扱っているように現れるのだ。ここにおいて、視聴者である我々の視線が撹乱される、その有りようにこそ我々の対アイドル関係への示唆がある。
原作の方を取り上げた二年前の日記では、オヤジ=事務所、スミレ=アイドルという読み方をしたのだが、違う。これはアイドル論の観点で見るなら、人間として立ち現れるスミレ=アイドルの表象(我々の願望)、人形とオヤジ=アイドルの現実的側面と見るべきだろう。
アイドルが生身の人間である限りにおいて抱える問題は、アイドルはメディアを介した現象(虚構)でありながら、生身の身体(現実)でもあるということ、この矛盾である。実写化において場面ごとに「人形とオヤジ」―「人間」という峻別がされたことで、マンガの描写ではメディアの性質上不可能だった「現実―虚構」というアイドル論必須のテーマを表現できた。
ドラマにおいて、場面によってスミレを人形と人間のどちらの形態で登場させるか、ということは分析の必要があると思われるが、簡単に言えば、人形の身体性が露わになってしまう場面(食事ほか、オヤジが操作に苦労するような場面)では人形として現れ、オヤジが苦労なく操作できている時には人間として現れている。その他、周囲の人間がそれを明らかに「人形」として認識する場面では人形として現れる。だから第1回での人形の登場シーンが多いのは当然である。逆に言えば、回を重ねるごとに人形の登場シーンが少なくなってくるのは、周囲の人間が、四谷スミレが人形であるという違和の感覚が徐々に薄れていっていることを示している。これをアイドルに落とし込んで考える場合、レインボーピンクでも美勇伝でもいいが、はじめ恥ずかしくて見ていられなかったアイドルに段々慣れてしまい、没入していく過程に相当する。
とは言え、四谷スミレはまぎれもなく人形である。多くの視聴者はおそらく、回を重ねるごとにこのドラマに慣れ、ある意味では退屈していくことだろうと思う。だがそれこそが、ドラマの登場人物と同様に、我々も四谷スミレが生徒である、という荒唐無稽な設定に慣れていき、さらにそのことに無自覚にすらなっている証なのだ。しかしその慣れを覚まさせるごとく、ドラマ内ではメタ的な語りが挿入される場面がある。例えば第2話(45秒あたり http://jp.youtube.com/watch?v=T-dG5ZG6YJQ)で、カメラ小僧みたいな人物が、スミレを見て「人形ってレベルじゃねーぞ」「完全に実写だよこれ〜」と話すのだ。ここで、このドラマでは人形が女子高生の扱いを受けている、その人形をさらに人間が演じているという錯綜に我々は意識を向かされて混乱するのだ。そして我々がどこに視点を置いてこのドラマを見るのか、という脆弱な地盤に漠然とした不安感を抱くのである。この第2話の場面は形式的には感動的な場面なのだ。しかし、同時に、それはあくまで人形にある程度のリアリティを認める前提での話なのだ。もう少し覚めた認識で、「実際には人形を操っているオヤジが全部やっているのだ」と見た場合、感動どころかバカバカしいシーンということになる。決して無頓着にオヤジの肩を持って安全に視聴できる場面ではないのだ。
今、アイドル現象を見る場合、こうした視点(立ち位置)の移動というのはヲタの必須条件のように思われる。時にベタに、時にメタにという振る舞いは、アイドルを見る者に課されたコミュニケーション能力であろう。
というわけで、まずはアイドル論として、「スミレ16歳!!」が興味深い作品であることを指摘したわけですが、まだ全然核心に行けていません。続きは日曜あたりに。