2.アイドルを信じるとはどういうことか

先日の、「1.誰がアイドルを信じているのか」の続きです。


「信じる」という言葉は不思議だ。「信じている自分」を意識した途端に、その信じる対象の不確かさに思いを馳せている。以前新宗教の信者の方に、「宗教の真理を「信じている」じゃなくて、「知っている」と言うべきではないのか」と問うたことがあるが(それへの返答はどうだったか忘れた)、「信じている」という言葉を使うのは不確かだけどあえてそう思う、ということにおいて、信じていない。信じている状態の時に、信じているという言葉は使えないはずだ。
一方それでも、その「信じる」という言明によって、あるいは信じようとするその精神の志向性の強さによって、信じるという行為が成立する余地がなお存在するのではないかという気もする。



「アイドルを信じる」という言明をする場合、まずそのアイドルが括弧の中に入っている。「アイドルを信じる」とは、「自分がそのアイドルをこういうものだと定義づけているその通りにアイドルがあるということを信じる」ということであるとすれば、それはつまり自分なりのアイドル像を前提とした言明である。「処女性・清純さ」を求めれば、「恋愛をしていないと信じる」のだし、「家族のような温かさ」を求めるなら、「仲がよいと信じる」のだ。
アイドルは別に僕たちと約束をしているわけではないのだが、アイドルが流布されるそのイメージがアイドルをなんらかの枠に押し込める。僕らはその枠―フィルター―を通してアイドルを消費していく。だから当然、その消費枠組みを修復不能な形で破壊してしまうような情報はアイドルを危機に陥れる。(枠組みがゆるやかに移行できれば、それはそれでいいのだが…。)
アイドルを信じる、とはアイドルをこうだと信じている自分を信じることでもあり、アイドルが信じられなくなることとは、アイドルを信じていた自分を信じられなくなることでもある。今までのアイドル観が崩れるような事態に陥ったとき、対応は二つあるだろう。好きなアイドルを代えるか、自分の認識を変えるかだ。(後者において、「アイドルを信じる」の別の意味が立ち現れてくる。)
ここで「自分」の二つのモデルを考えられるだろう。①変わらない価値を愛で続ける現状肯定モデルと、②漸進的に変化を重ねていく成長モデルだ。単純化すれば「DD」と言われる人間が①、「単推し」が②となるわけだ。現状に甘んじることなく、常に成長させていこうとする点で、実社会のことを考えれば、②の方が立派な人間像、ということになる。しかし、実社会で②の人間像が理想とされる以上、せめてアイドルの世界では①でいたいというバランス感覚を否定することはできまい。
不断に価値を提示し、欲望を喚起していく資本主義のシステムにおいて、①も②も消費を促進させる契機ではある。①であれば「あなたをそのままで認めてあげます」という商品が流布し、②では「本当のあなたはこうです」という商品が喧伝される。アイドルにおいては、自分の幻想を壊さないアイドルに次々に移り変えていく志向性(=アイドルにはできることならそのまま変わらないでいてほしい)が①、②であれば、例えば℃-uteを応援して、℃-uteが頑張っているから自分も頑張らないと、と自分を成長モデルに乗せていこうとする志向性(アイドルにも成長していってほしい)。こうして見ると、①はダメだ、②になれ、みたいな説教が始まりそうだが、そう単純ではない。ヲタの内部でほとんど不可避に①と②が混在するところに問題があるのだから。(それに、②があたかも普遍的な価値であるかのように見なす社会はどうなのか、という論点もまた非常に重要だ。)
アイドルの身体性を例にとるなら、①と②の混在は、「アイドルが年取ってほしくないけど(胸が大きくなってほしくないけど)、それは無理だから魅力ある大人の女性になってほしいな」というジレンマとして現れる(ああなっきぃ!)。


スキャンダルが発覚してなお「アイドルを信じる」という場合、上記の二つのモデルに従って二つのケースを考える。①の場合、スキャンダルとしての情報そのものを信用しない(俺は○○を信じるよ!)ということになるし、②の場合、スキャンダルの事実を認めた上でなおアイドルを応援する(俺は○○の生き方を信じるよ!)、ということになる。①はアイドルイメージ(虚構)を準拠点とした信仰、②はアイドルの実存(現実)を準拠点とした信用、と言うことができよう。①が強くなりすぎれば、アイドルを信じると言っておいて自分のアイドル像に押し込める自分勝手な愛となり、②が強すぎれば、アイドルがどうなっても応援する、逆に言えばアイドルがどうなっても別に構わない、という無関心の愛になる。これら、アイドルをめぐる二つの愛の形式のバランスをどうとるか、そこがアイドルヲタの課題である。アイドルへの愛は、その二つの間の小さなすきまに糸を通す作業に他ならないのだ。(参照 ⇒ http://d.hatena.ne.jp/onoya/20071103/1194056417
さらに続く。