ヲタは魔法をかけられたまま

松浦亜弥中野サンプラザ夜紺に行く。
2006年のライブで幻滅して、
2007年のライブで納得して、
さあ、2008年の松浦は。



全編生バンドで行われたライブ、今日気づいたのは、生バンドだと圧倒的にヲタ芸がしづらい、ということ。まあそもそもしようとする人がいないのだが。
ライブ中、何度か楕円状の鏡がステージ上に下りてきて、松浦の後ろ姿、特に脚を映し出したのだが、これが演出上どのような意味を持ったのか僕にはよく分からなかった。ただ、アイドルのライブであれば、以前だったらスクリーンにアイドルの顔を映し出したはずだった。今回スクリーンには曲のイメージに沿った映像が流れた。
アイドルのライブは見せるもの、歌手のライブは聴かせるもの。そういうことであるなら、松浦亜弥のライブは歌手のライブであった。「ダブルレインボウ」で、松浦亜弥は完全にヲタを黙らせた。あまりにも歌の力で圧倒されて、中途半端にのることすらできなかった。以前(4、5年前)であれば、「初めて唇を重ねた夜」を歌っている最中に邪魔が入るようなこともあったけれど、今は全くない。「ダブルレインボウ」が終わった瞬間のヲタの拍手は、ほとんどスタンディングオベーションか、クラシックコンサートのアンコールに近かった。
ここで、魔法がかかった。
以降、ノリのいい曲が続く。それは「あやや」だった頃の曲たち。そこはそこで見事にアイドルを演じられる松浦は本当にすばらしい。でもなんだか、再放送みたいな気もする。「アイドルである」でなくて、「アイドルしている」という印象も、あるかなあ。これはもうないものねだりだけれども。
アンコールの「可能性の道」で出だしの歌詞を忘れる松浦。これがわざとであったとしても、あるいは本当に歌詞を忘れて、それをうまく利用したのだとしても、ともかく松浦はそれをヲタが嬉々としてつっこむネタとした。恥ずかしげもなく、ヲタに歌詞の出だしを聞く松浦。これを、歌手としてのプロ意識なしだなどという的外れな非難をしないようにしなければならない。松浦がヲタに甘えなければ、松浦はアイドルであることを完全に放棄しなければならないのだ。松浦がヲタを必要としているポーズをとらなければ、松浦は全くヲタを必要としない歌手になってしまう。なぜなら、松浦のライブは基本的に突っ込む余地がないほどうますぎるのだ。MCでも散々にヲタをいじり(完全にヲタを個別にいじったりもする)、そしてヲタに甘える。そこに辛うじて「あやや」が残っている。そうやって、彼女はアイドルと歌手のバランスを自ら取っているのだと確信した。
それにしても、我々に能動性は残されていたのか。「ダブルレインボウ」で魔法をかけられてから一層、僕らはヲタ的な振る舞い――つまりは演者が求める秩序の外に出ようとする振る舞い――を完全に封じられてしまったようだ。松浦を本当に困らせることを僕らはあの現場ではできなかった。松浦はそんな空間を自ら作り上げたのだ。それはパフォーマーとしての熟達ぶりを示す。
素晴らしいライブだった。言葉としてその素晴らしさが書けるライブだ。その中で一番言葉で書けなそうなのはあの「ダブルレインボウ」の響きだ。それは歌手の力であって、アイドルの魅力ではない。もちろん僕はないものねだりを続けようとは思わない。彼女なりの到達点であるこのライブは、非の打ち所がなかったと確かに思う。彼女の魔法で、ヲタを完全に統制下に置く。今ヲタ芸でのライブ荒らしなど、ヲタの横暴が問題化される中で、中野サンプラザは楽園であったのかもしれない。
ただ結局僕は、2003年までの松浦紺のほうが好きだ。あの頃、僕は「あやや」になることが出来た(今「ダブルレインボウ」を歌う松浦に、もはや同一化は不可能だ)。その空間は「我々の空間」で、我々がいなきゃダメな空間だった(今の℃-uteのように)。今、松浦紺は、松浦がヲタに手を差し伸べることで、辛うじて「我々空間」として成立している危さも存在していた気がする。幸か不幸か、松浦は歌も何もうますぎたのだ。松浦の劣化版のような前田憂佳がアイドル性を今はちきらせていることを見たとき、アイドルはヲタの能動性によって現象として発露するものなのだということを改めて感じずにはいられない。難しいもんだなあ。