1.誰がアイドルを信じているのか

夏焼の件がとりあえず収束した、と見ていいのだろうか。
とは言え、STK対策ってのは本気でなんとかしないといけない。アイドルが、そうした存在がいることへの恐怖を感じることによってアイドルの魅力を削がれてしまうことはあまりにも悲しい。そこらへんの対処って、やっぱり裏の稼業が必要なんだろうか。


さて、こうした騒動における我々の自戒として、件の画像や動画を見た時点で同罪であるとか、片棒を担いでいることになるのだ、とかいう議論がある。ふーむ。
STKの快楽というのは非常に分かりやすくて、自分の影響力に全能感を感じる、自分が特権的な位置にいるという優越感だ、という凡庸な解釈で大して間違っていないと思う。騒げば騒ぐほどSTKの思う壺だと、まあそういうわけですな。
ところで、この時STKは、自分が情報量として特権的な位置にいる、ということとともに、「対アイドル関係」においてもメタ的な位置から俯瞰しているかのようなスタンスになると思う。つまり、「おまえらはアイドルを純粋に信じちゃっているだろうが、俺は違うし、俺は真実を知っている」というスタンスである。これは極めてオタク的な態度である。自分を他者と差異化づけていくために、想定される他者の認識のメタレベルに立とうとする志向性を持つということ。例えばニコニコ動画で繰り広げられる「俺が一番分かっている」的なコメントの数々は、そうしたオタク的な振る舞いの象徴的な事例と言える。
しかし、そうした「ある領域に関わる小宇宙」とは完全に隔絶された視点からそれを見ると、それらは十把一絡げの不毛なヲタ論争として一笑に付される。誰がメタ的な位置にいるかなんてことは自明でなくなる。
STKは「少なからず誰かが純粋にアイドルを信じている」と信じている。そうやって、「自分以外の誰かが信じているがゆえにアイドル現象にコミットする」というのは例えば貨幣制度と同じようなものだ。他の人があたかも貨幣に価値があるかのように振る舞うがゆえに自分もそのように振る舞う、ということにおいて貨幣制度は成り立っている。そこにおいて、誰か特定の人間が特権を持つわけではない。
「本当に純粋にアイドルを信じている者がいるのか」というのは面白い問題だ。実は、そんな者(=Aとしよう)が一人もいなくたっていい。STKがAの存在を信じ、騒ぎを起こすと、Aの存在を信じる事務所が、アイドルとしての約束を破ったということでアイドルをやめさせようとする、そうした動きを見たヲタがあわてて騒ぎ出す、あるいは周りのヲタが動揺するんじゃないかということに動揺する、という構図。(実際、今回は多くのヲタが、事務所が早まったことをするんじゃないか、とやきもきしたはずだ。事務所が純粋なアイドル神話を信じていませんように…と祈る僕もそこにいた。)全ての立場が、どこにいるとも知れないAの存在を前提に動く、それによってアイドルが生死の境をさまよう。確かに、我々が大騒ぎをすることも、その時点でSTKの特権性を構成していくことになるようだ。
事務所が華麗にスルーしてくれればそれで一件落着だが、ヲタの側でも、「アイドルなんて初めから信じちゃいない」とSTKを突き放すことで問題を回避できる(ある意味それはSTKと肩を並べることでもある)。しかし、STKに抗するために、あえてさらに「僕はアイドルを信じる」と言うこともできるのではないか。
STKが仕掛けた事件によって揺らぐと思っていた信仰が、それでも揺らがない。「何があっても僕はアイドルを信じる」というのは、それはそれでSTKへの勝利ではある。(ここにおいては画像や動画がアイドル本人ではないと信じる、「アイドルは恋愛なんかしない」という意味でアイドルを信じる、ということを指す。)つまり、AがAである限りアイドルシステムは崩れないのだ。先ほどの構図で言うと、STKが仕掛けてきてもヲタが微動だにしなければ問題は起こらない。でも実際に騒動が起きてアイドルが危くなるのは、結局のところ誰もAを信じていないからなのだ。「純粋にアイドルを信じていたAだが、今回の件でアイドルを信じられなくなってしまうに違いない」という風に考えるがゆえにアイドルの危機を迎える。これは結局個々のヲタのアイドル観の反映なんじゃないかと思う。ほとんど全てのヲタが、アイドルを信じきることができていない。ここにおいて貨幣制度に比べあまりに脆弱なアイドルシステムというものが明らかになる。
では「アイドルを信じる」というのは困難な道なのだろうか。まずは「信じる」という言葉遣いから考えなければならないような気がします。続きます。