踊り子に触れない倫理

12:00
埜亞×メリユ×森馨 人形展「残酷な姫君の宴」

ヴァニラ画廊の妖しい人形展に行く。
以前「マリアの心臓」で見た人形たちが「かわいい」ものではなかったのに比べ、かわいくエロい人形たち。
一点集中の力として、前回乳首を挙げたが、訴える力では当然「眼」も強い。僕にとっての「人形愛」は、乳首と眼だとさしあたって言えると思う。
森馨の全裸少女の人形に僕は期待して行ったが、人形そのものがあるかと思っていたら写真だけだった。棺桶のようなケースに収まっている少女が、いくつもの鏡に反射している写真。少女は眼をつぶっている。だからそれを見るものは少なくとも他者の咎めをそこに感じることなく、一方的な視線を遣ることができる。そこにおいてどうしても少女の乳首にアクセントが置かれているような気になる。根源的な生命性を僕は感じる。うーん、ちょっとかっこつけすぎか、確かにエロくはあるんだろうと思う。もちろんそこに男→女の視線がないとは言えないだろう。だけどなんというかやはり、「性別を超えたエロ」ということを言いたくなる。
もし、その人形が僕の目の前にあって、僕の意のままにしてよい状況があったとして、僕はその乳首を触るだろうか。…おそらく触る。では、僕は「乳首を触りたいと思っている」と言えるだろうか。ここが難しい。別の例を考えてみよう。僕の好きなアイドルを、僕が意のままにしてよい状況があった場合に、僕はどういう行動をとるだろうか。昔僕は辻希美と何がしたかったかと言うと、公園で砂遊びがしたかった。今僕は中島早貴とプリン(またはみかんゼリー)を食べたいのだ。自分の胸のうちにできうる限り正直に考えるに、たとえば辻の裸の胸が差し出されたときに、僕は結局は触ると思うが、できればそれが見えないことを望む。これはかなり重要な論点であると思う。僕の「萌え」という語への印象にも関わることだが、以上のような、「触れる」「触れない」で言えば、「触れない」のが「萌え」である。言い換えると、鏡に自らを映すように対象へ視線を送るか、もっと進んで対象と自らを同一化する――いずれにしても対象には触れない(同一化は触れるとは言わない)のが「萌え」。触れる方が「エロ」。乱暴な議論だけれども、試論としてひとまずそうしておく(議論をもっと進めればこの二者が最終的には同じところにたどり着く気はしている)。
僕は「あえて距離をとる」ということが重要であるように思われる。人形がケースに入れられているのもそうだし、アイドルが適度に離れた距離をもって我々に差し出されるのもそう。エグゼクティブパスに多くのヲタが反感を持つのは、こうした「距離をとる美学」を、そうした戦略を打ち出さなければならないはずの事務所自身が崩そうとしているという理不尽さに対してであろうと思われる。また、僕がU15のジュニアアイドルが過激化していることに釈然としないのは、消費者の多くに、こうした「あえて距離をとる」ことの美学がないことに疑問を覚えるからだ。これはもちろん僕の一面的なU15に対する価値観である。だけれども、距離をゼロ、隠蔽を限りなくゼロにしていこうとする運動が、対象を滅ぼす方向へと進ませるなら、距離をとることによる倫理を唱えてもいいんではないかと思う(もちろんこれは対象をできるだけ守ろうとする価値観を前提とした倫理であるが)。
ヴァニラ画廊のサイトには今回の人形展に関してこうある。
『高貴で美しい存在ゆえに人々の嫉妬を買い、無残な目に遭いつつも常に勝利する姫君は孤高の少女の象徴でもあり、その眩しい程の処女性に人々はさらに嫉妬し、劣情を催すのです。
運命に翻弄され、それを甘んじて受け止める従順な姫君たち。』
…まさにアイドルそのもの。人形は生きていないが、アイドルは生きている。身体と精神を持ち合わせた人間である、からこそ、守ってあげたいと思うがゆえの倫理を考えたい。だけれども、これは映画「キサラギ」からの教訓だが、まさにそうしたヲタの執着こそがアイドルをアイドルから抜け出させなくするという側面も同時に存在する。もしかしたら、と最近思うのだが、こんな倫理がどうたらなんていうのは本当は全然必要なくて、アイドルは消費されて自然に淘汰されて入れ替わって、っていうのをただ受動的に僕らは受け入れるしかないんじゃないか、という絶望的な気分もある。でも、僕はアイドルに、「愛」とか「人間性」とかいう胡散臭い信念を以て対峙したいと思ってしまっている。笑わば笑え。