「携帯小説家」論 〜閉じる、閉じない〜

さて、ほとぼりが冷めないうちに書かないと。ネタバレしながら進みます。
℃-uteの舞台「携帯小説家」ですが、いろいろと意見があるようです、よく知らないけど。
ぼくの見方は、前半で娯楽性を打ち出して、後半で脚本家のメッセージ性をこめてきた、という点で、うまくバランスをとったな、という感じです。ぼくは「寝るキュー」と同じくらい興味深い作品でした。
寝る子はキュート」でも、「携帯小説家」でも、ストーリーを安全に終わらせない、ただ単にアイドルの正の部分だけを取り出してお茶を濁さない、極めて攻撃的・挑発的な結末を用意しているところが、比較的読み込むことの好きなぼくにとっては素晴らしいと思える。
寝る子はキュート」では、みんなが帰ってきたら火事が起きていたし、「携帯小説家」では、ひととおり話が終わったかと思った時に、秋吉(岡井)がミクシィに書き込んで、作家の個人情報を晒してしまっていたことが発覚する。「ただの」アイドルの舞台であるなら、こんな破壊的な物語にする意味は全くないのだ。ただ、ヲタを楽園に安住させるためだけのエンターテインメントであれば、かわいいアイドルと、ハッピーエンドのストーリーさえあればよいのだ。
そうではなくて、あえて、アイドルとは、というところに踏み込む。そこにアイドルを使って舞台を作り上げていく積極的な意味合いがあるだろうと思う。もちろんぼくは、そうした深読みが必ずしも必要だとは思わない。ただ、娯楽としても、文学としても楽しめる。そうした解釈可能性の多様さこそ、アイドルの面白さなのだと僕は思うのだ。


さて、この舞台の主題として「アイドル」を見ていくことに関しては、よくまとまっている郁氏のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/lovelikelie/20081022/p1)に譲るとして、ぼくは「閉じる⇔閉じない」という問題系から「携帯小説家」を考えたい。
携帯小説家」では携帯とコラボレーションした面白い試みがなされた。携帯サイト「ポケットモーニング娘。」のメールマガジンとして、舞台が始まるまでの1週間ほど、ケータイ小説「サムライ☆ベイビー」が配信されたのだ。そして、その小説は最終章を残して配信が終わる。
舞台「携帯小説家」はケータイ小説を書く7人の少女の物語だが、舞台が彼女達の書いたケータイ小説「サムライ☆ベイビー」の最終章から始まるのだ。つまり、舞台の始まりが、小説内の物語を演技したものから始まるということだ。そしてその携帯小説の物語が終わった後、その舞台における「現実」――携帯小説家の物語が始まるのだ。
この構造は、舞台を初めて見る者にとって、大いに戸惑うものである。実際、舞台開始数分で、ケータイ画面を模したスクリーンに「終わり」(これはケータイ小説「サムライ☆ベイビー」の終わりを意味する)という文字が映し出される時、観客は変にどよめく。「え?なに?」という雰囲気。直後に「いや、ここからが始まり」と字が出るのだが、その後、出版社の人間が、その小説最後のセリフのくだりを読みながら登場することで、ようやく、さっきの場面が小説内の出来事だったのだ、と気づく仕掛けになっている。
このメタ構造は、その後の舞台を娯楽性の強い前半と、メッセージ性の強い後半に分けた時、いくつかの意味を持つことになる。まず、前半において、こうした小説内と小説外が入り乱れることは、単純に物語を面白くさせるスパイスとしての意味合いを持つ。我々は物語の外にいたはずの℃-uteメンバーが、いつの間にか自分の想像した物語内にキャラクターとして入り込んでくる、その混沌を楽しむ。また、それぞれのメンバーが、結局自分を中心とした物語を描いてしまうことの面白さ。と同時に、現実においては、それぞれが「私」という意識を持った主人公のはずなのに、物語においては、誰か一人が主人公になってしまう、という差異が顕在化して興味深い。
後半においては、そもそもそのメタ構造は自明なのか、ということが問題になってくる。これに関しては後述する。


舞台の後半からは、様々な主題を取り出すことができる。ただ、その多くは、メディアと我々、メディアと関わりながら生きる我々についての主題である。

ケータイ小説の是非と、現代の「リアル」
ケータイ小説の登場人物が、浅はかな理由で気持ち・行動を起こす様を、大人世代はリアルでないと感じ、中高生はリアルであると感じること。舞美演じる少女が想像する小説の始まりも、いかにも戯画化された風に演じられる。だが、この舞台では、ケータイ小説を否定しない。むしろ出版社の人間は、読みたいと思える人に本を売る、そこに希望がある、というメッセージを発する。つまりは消費者の主体を重視する。

②幸せは誰が決めるか
舞台終盤、大御所の小説家の娘が、「幸せは自分で決めるものだ」というメッセージを発する。

メディアリテラシー・モラルの問題
交通事故現場をケータイで撮影する、ミクシィに他人の個人情報を記載する。アイドルという観点でいうなら、撮られる、書かれる、またはミクシィで言えば、アイドル自身が書く、と言ったような、正直なあなあで済ませたければ回避したいテーマである。そこに切り込む。さらには、「メディアの発達で犯罪が増えた」とする大御所の小説家の意見に対して、「使う人の問題じゃないんですか」と反論した秋吉(岡井)こそが、後にミクシィに個人情報を書き込んだ張本人だと判明する、という、あたりさわりのない結論に落ち着かせる気が到底ない筋書きである。
ところが、そこに至って小説家のほうは、「犯人なんてどこにもいない…そういう世界なの。誰も責任を取るべき人間がいない…。」と達観してしまう。もちろんこの見解自体も、メディア論としては興味深いものではあろう。

④閉じているのは誰か
7人の少女は、舞台の中で、実存的な理由を抱えてケータイ小説を書き始めたことが分かる。その一方で、小説家のほうは、なぜ小説を書くのかはあまり明らかにされないまま、ヒットした後はうぬぼれて、売れなくなったあとは、人里離れた村に越してきて、いつまでも自分の書くものがまたいつか売れるのでは、認められるのではと思っている。つまり、小説家は「閉じて」いて、ケータイ小説家のほうが「開いて」いる。これは面白い描き方だ。一般的な見方からすれば、純文学こそ他者との関係に開かれる、実存的なものであり、ケータイ小説こそ、内輪的に消費されるもののように思われるからだ。
奇しくも、小説家はミクシィでの情報流出によって、暴力的に「開かれる」ことになる。それが必ずしもよいとは思われないが、小説家も、その娘も、それをきっかけに閉じた村から出て行くことを決意するのだ。

⑤現実は現実的だ
とはいえ、結論は必ずしもハッピーエンドとは言いがたい。小説家はワイドショーのコメンテーターでキャラクターを演じ、娘は娘でダンサーを目指しているものの、どうも未来が明るいようには思われない。携帯小説家の7人も、2作目の小説に失敗し、それぞれ自分たちの道を歩こうとしている。そこにファンタジーはない、でもだからこそやはり、ケータイ小説を書いたのだろうな、と思わせる現実感だ。



さて、物語の最後で、それぞれの道を歩き出した少女達が登場し、舞美が、なにかを携帯に打ち込んで、「よし!」と言ったところで「終わり」の字が映し出される。そして「いや、ここからが始まり」という字幕。ここで、先ほど指摘したメタ構造を思い出してほしい。舞台冒頭では、ケータイ小説が「終わり」、「携帯小説家」の物語が「始まり」、ということであった。舞台の最後では、「携帯小説家」という舞台が「終わり」、℃-uteというアイドルが始まることになる。なぜなら、その後は℃-uteの歌のコーナーだからだ。だがもちろん、この繰り返しを見るのであれば、では℃-uteという物語もいつかは終わるのだろう、ということに我々は思いが到るはずだ。では、℃-uteというアイドルの終わりも、また「始まり」なのだ、とぼくらは言えるだろうか。ここらへんは、郁氏のほうにもおんなじようなことが書いてあったから引用。

『夢野美鈴=℃-uteっていう比喩があって、彼女達の夢が一様に「小説家ではない」という設定もおもろいね。あくまで世の中に飛び出すための手段としての「夢野美鈴」であり、最終的な目標や自分の理想像も全員ばらばらで。でも、そういう7人が集まってるから、きっと彼女達は魅力的に映るんだろう。物語のラストは夢野美鈴を「解散」した後日談で、これってもういつかやってくる「その日」を示唆してる訳じゃん。奇しくもエルダークラブ解散なんていうのと重なってね。感慨深かったですよ。それでも、やっぱり救われたのは「終わり」というテロップが出た後に「ここからが始まり」なんだと掲げられたことで。』郁氏(http://d.hatena.ne.jp/lovelikelie/20081022/p1


ところで、以上のような考え方というのは、人間を成長モデルに乗せて、終わりがあれば始まりがあるが、同じことの繰り返しではない、前へ進んでいくのだ、という世界観だと思う。



だが、ぼくがこの舞台が一筋縄でないと思うのは、さらに別の見方も可能ではないかと思うからだ。舞台終盤、大御所の小説家は、ケータイ小説を揶揄して「携帯は剣よりも強し」と言うのだが、実は舞台冒頭、ケータイ小説「サムライ☆ベイビー」の最終章は、以下のように始まるのだ。
「昔、どこかの誰かが言った。ペンは剣よりも強し。その、どこかの誰かに私は言いたい。今はね、携帯は剣よりも強し、なんだよ?」
ここで、時間軸と、虚実がまったく混沌としてくる。中高生の語彙能力を考えるなら、この言葉を自分で思いつくはずがない。であるならば、舞台冒頭の「ケータイ小説の最終章」は、舞台後半の小説家のセリフを聞いた後に書いたもの、ということになる。となると、新しく始まったと思った物語が、実はもとの物語をただなぞっているだけではないのか、というネガティブな見方になってくる。
ここでは成長モデルではなく、現実は同じことの繰り返しという循環的自閉モデルになってくる。あるいは、物語の外に脱出しようと思っても、実はまたそれは同じような物語の中だった、みたいな絶望。
ただ、これはちょっとうがった見方であろう。それでも、「閉じる」「閉じない」という問題系について様々な示唆をくれる作品ではあろうと思う。アイドルの舞台が、こうした含蓄のあるものであることが、ぼくには救いである。


…いうても、なっきぃがいてなんぼですがね。