「閉じない」ようにアイドルを愛せるか

アイドル愛を擬似恋愛と捉える方は、上記エントリの①のような相対化する視点を持つヲタではなく、まさにベタにアイドルに恋愛をしてしまっている人間をこそ念頭に置いているかもしれない。
アイドルとアイドルオタクが幸せな関係を築く方法http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080913/1221280617
上記エントリにおいては、「擬似恋愛」と「ほんとうの恋愛感情」とが区別されているが、そんなことはどうでもよい。ともかくも、ベタにのみ対象に耽溺しているヲタを考えた時、「アイドルオタクたちが、本当の意味で幸せになれること。ぼくが野球や小説に感じたような幸せを、アイドルオタクたちもアイドルに対して感じられること。そうして、死にたくなるようなショックを受けるといったことは、絶対に回避すること――」という問題意識を上記エントリの筆者は書き記す。そして結論としてアイドルの恋愛禁止を掲げるわけだが、この問題意識に対する問題意識が必要ではないかと思えてくる。
上記カッコ内には怪しげな言葉が多い。「本当の意味で幸せ」とか、「ぼくが野球や小説に感じたような幸せ」とか、「死にたくなるショック」とか。
アイドルオタクの「本当の意味で幸せ」な状態を、筆者は「アイドルが恋愛をしないことによるオタクの安心」と多分言っているのだが、それでいいのかどうか。随分とオタクがバカにされているような気もする。(と、ここでぼくは、なぜアイドル論が成立しにくいのか、という問題意識を思い出す。アイドルとは、オタクとは、と言い出すと、「必ず勝手なこと言いやがって」と怒る人間が出てくるものだった。その矛先がぼくに向かうこともままある。)ここでは、オタクの幸せを語ることによって、ひとつの生き方、世界の捉え方が選択されている。「閉じる」ことが選択されている。
「ぼくが野球や小説に感じたような幸せ」と書き、筆者はアイドルという娯楽の特異性を照らし出そうとしている。しかし、筆者は、例えば熱狂的なスポーツファンが、ひいきチームが負けることによって自殺をするとか、ある人間が小説を読むことによって実存的な悩み苦しみを経験するといった可能性を全く射程に入れていない。「死にたくなるショック」を受けるのがアイドルという現象においてのみであるかのような書き方は、さすがに視野狭窄であると言わねばなるまい。
ただしかし、ぼくは筆者を頭ごなしに否定することはできない。これはどういった生き方を選択するかの問題である、と思う。「閉じる」か、「閉じない」か。「他者」と出会うべきなのかどうか、ということだ。
リスク無く、傷つくことなく、楽しく過ごせれば幸せだ、そうして、変わらない自分でずっといられる、自分を肯定しつづけられる世界、これを「閉じた世界」と言おう。リスクがあり、傷つく可能性があり、自分を変えていかなければならない、自分が時に肯定され、時には否定されながら成長モデルに自分を乗せていかなければならない、そうした中で「他者」と出会い、そのコミュニケーションの奇跡的成立を幸せとする、これを閉じない、「開かれた世界」と言おう。一体どちらを選択するか、ということだ。狭いコミュニティだけで生活が成立していた時代は、「閉じた世界」でよかった。近代化した社会においては、「他者」と出会わなければ生きていけない、「開かれた世界」において、自分を変えていかなければならない成長モデルが強制された。では、ネットやらケータイやら、コミュニケーションツールが発達した現代、狭いコミュニティに自閉していくことも可能であるかのような現代で、どちらの生き方を選択するか。「リアルのゆくえ」(講談社現代新書)において、東浩紀は無理に「他者」と出会っていく必要なんかないじゃないか、みたいなことを言っている。
ぼくは、「他者」ということを意識して倫理を模索していきたい立場だ。「死にたくなるショック」を初めから回避してアイドルを好きになる、それって恋愛なのだろうか、傷つく可能性を減らして人を好きになるって、一体なんなのだろうと考えてしまう。アイドルに「本当の恋愛感情」を抱いてしまったファンに、恋愛をしない安心なアイドルを提供する、それって、アイドルがもはやかけらも「人間」ではない、それこそ「擬似恋愛」になるというなんとも皮肉な事態だ。もし「本当の恋愛感情」を抱いたなら、徹底的に傷つく可能性とも向き合いながら好きであればいいのに、と、「開かれた世界」観を持つぼくは思う。「死にたくなるショック」を受けた人は、不幸せなのか?よく分からない。
ぼくは矢口が辞めて泣き、辻が辞めて泣いた。でも矢口や辻を嫌いにはならない。自分を全肯定してくれる間は好きで、自分の思いのままにならなくなったら嫌いになる、そんなことにはしたくない。アイドルが幻想であって、でも生身でもある、その他者性を踏みにじりたくない。ヲタが失恋する定めならば(まあここではヲタを恋愛という側面でのみ語るが)、せめてそこまでの幸せをたっぷりかみ締めればいいじゃないかと思う。桜は散るからこそ愛されるんじゃないのかなあ。


とはいえ。われわれは労働の現場で否応なく「他者」と出会わされている。せめてアイドルという娯楽では、「閉じたい」、全肯定されたい、というのは強く共感できるところであるのも事実なのだ。難しい。だから、アイドルを上から目線で、意のままにして、アイドルを消費したい、それはそれでもちろんアリだ。じゃあ、アイドルを意のままに自分のあやつり人形にしたい人も、「他者」として恋愛したい人も、あるいはネタ的に消費したい人も、アーティストとして見たい人も、みんながそれぞれの解釈で楽しめるようにしておく、という妥協点しかないと思う。
アイドルに対して恋愛禁止と打ち出すことによって、ある一定数のヲタは時代錯誤的だと笑い、ある層はあきれ、ある層は興ざめし、ある層は非人道的だと怒り、またある層は喜ぶかもしれない。それだったら、なにも打ち出さないほうがよいと思う。何も打ち出さないで、その空隙をぼくらの能動性で補完することでそれぞれのアイドル現象が完成する、そういうことじゃないですか。



恋愛よりも、アイドル愛のほうが圧倒的に他者愛が希薄になる。経験からそう思う。だからアイドルを愛する方が決定的に楽だとぼくは思う。ただそこに、かけらでも他者性を認めていくべきだと、そう思う。女性アイドル産業は脆弱で、女性アイドルの内面も身体も脆弱で、ぼくらヲタも脆弱なのだ。それでも奇跡的にアイドルはこの世に存在している。その他者性、身体性が怖いなら、自閉したいなら、二次元の世界にいったほうが傷つかなくて済む。それは決して悪い選択ではないだろう。生身の身体を持ったアイドルを愛するなら、その身体性・他者性にほんのかけらでも顧慮すること、そのくらいの最低限の倫理を提唱してもいいのではないかと思う。…むりかな。