MADAYADE

MADAYADE(初回限定盤)(DVD付)

MADAYADE(初回限定盤)(DVD付)

ドアップで動画が上がっております。
モンキーダンスに引き続き、日本の応援歌に仕上げてきた、という感じ。ラブマから恋ダンあたりの、お祭り的日本応援ソングの様相。
Berryz工房のメンバーが猿からOLに変わった。「青春とは〜♪」と歌いながら、青春時代の少女の悩みを歌う振りをしながら、PVは延々オフィスで働くメンバーを映し出す。
重要なことは、歌詞が二つに分断されているということだ。これはつんくがよくやる手なのだが、ラブマでも、恋ダンでも、またその後の娘。の曲の多くでも、あるいはいくつかの℃-uteの曲でもそうなのだが、つんくの歌詞は、サビまでは主語が「私」であったものが、サビになったとたんに「みんな」になってしまう、という構造をとっている。初めは個別的、限定的事象であったものを、普遍性をもったものに拡張してしまう。
実際に「MADAYADE」の歌詞を見ていくと、「青春とは」と始まるのだが、恋とか、他人をうらやむ極めて個人的な悩み――少なくとも、少女に限定された悩みを歌っているように思われる。それは、サビ直前に、夏焼が自分の胸をなでながら、「もう悩まないさ〜」と歌うことに象徴される。
ところが、サビにおいて、主体がそうした限定的な個から、拡張されていく。
「夢はまだまだまだやで 二十歳や三十路はまだまだまだやで」
「希望はまだまだまだやで あねきもあにきもまだまだまだやで」
「四十や五十もまだまだまだやで」「おやじおふくろまだまだまだやで」
「六十や七十もまだまだまだやで」「おじいもおばあもまだまだまだやで」
…とまあ主語が「みんな」になってしまうのだ。
PVでは上司役の人間が全て外国人になっていることで分かるように、Berryz工房は日本人の比喩になっている。(もちろん外国人の効果は、PVをより虚構化することでもあるだろう)
日本人全員に、「まだまだこれから、希望を持て!」と勇気を与える曲。ただ、重要なことは、そのメッセージをベタに受け取るほど安直ではない現代人に、楽曲自体がそれを茶化しながら伝える、ということで成立させよう、という試みである。これはハピサマで、脳天気に「とうさんかあさんありがとう」と歌うのと同じことだ。
「MADAYADE」での「茶化し」(メタ化と言ってもいい)は、例えば関西弁で伝える、ということにも見られるし、振付でコマネチをすることにも表れるし、極めつけは、サビ末尾の「びょ〜ん♪」だ。あれに意味内容があるとは思わない。ただひたすら、ベタにのみメッセージが消費されないようなメタ化の作用をもたらすだけだと思う。
一旦茶化すことで、笑いながら、でも深いところで「まだまだやで」っていうメッセージが刺さったりもするんだろうと思う。そういう点で、ラブマの精神を引き継ぐ、極めて現代的な日本の応援歌として、うまく仕上がっている名曲だと思うのです。