前提:アイドルの舞台

アイドルが舞台をやるということ。アイドルが出演する舞台は、そのこと自体が舞台を見るにあたっての文脈となる。
舞台は役者の演技を見るもの、しかし、アイドルはその存在自体が作品でもあるかのようであるために、アイドルを見にいくことと、舞台という作品を見るということ、少なくともこの2つの視点が並存してしまいやすい。その点で、初めから虚構のメタ構造が可視化された状態でその舞台がわれわれヲタの前に立ち現れることになる。つまり、アイドルが演技をしている、ということが観客にもあからさまに自覚された上で、舞台が楽しまれるということだ。手練れの役者のみで演じられる舞台は、それに対して評論化然とした視点を意図的に持ち込まない限り、舞台の設定が自然に観客に受け入れられ、メタ的に捉えられることはないであろうが、アイドルの舞台は、そもそもアイドルという存在が強すぎるがゆえに、舞台という虚構が相対化された上で楽しまれることになる。
であるならば、よりアイドルの舞台を魅力的にするには、配役をできるだけアイドルの持つ属性に適したものにすることで、観客を舞台に没入しやすくし、またアイドル自体を見たいという欲望をも満たすことが重要である。
これまで、ハロプロの主要メンバーが絡んだ舞台では、宝塚とのコラボレーションを除けば、ほとんど以上のような形式において作られたはずだ。そのことは舞台を、ただヲタを楽しませ、リピーターを生み出すというだけでなく、現実⇔虚構という境界を曖昧にしていく、現代の「リアル」に対する問題提起的な作品にした。
今回のゲキハロ携帯小説家」では、℃-uteというアイドルを「演じている」彼女達が、携帯小説家を演じ、その中で小説内のキャラクターも演じる、という少なくとも三重の構造をとっている。そのことによって、我々の「リアル」の感覚を撹乱させ、また、ただ舞台を虚構に閉じた作品にしない、という効果を生んでいる。
このような、アイドルの舞台という特殊性をまずは前提として認識しておく必要があると思われる。