『田中欣一・金井清顕 展「緊縛写真+エロス絵画二人展」』

http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20070930 に触発されて、行ってみる。
エロって奥深いなあと。私の経験とか教養とか言葉とかじゃあ、どうにも扱いようのない世界だなと。まずヴァニラ画廊のある4階フロアまで行くだけでもなんだかドキドキしたのだ。
そこには女の裸体と縄の絡み合う世界があったのだが、やはり感じるのは女体というものの作品性。アイドルもまたそうなのだが、作品としてそれがあるということ。
物憂げな表情を浮かべながら独特の文様を成す縄に絡まれて悶絶している女性というのは、なんなんだろう。エロなんだけど、そこまで行くと、倫理的な善悪の価値を含まないような根源的な性を感じさせる。ややもすると、エロというのは禁忌を破ることにおける快楽という、「悪いことをしている」という感覚で捉えられがちな気がするのだけれど、画廊に飾られた絵やら写真やらを見ても、そういった性的な刺激感というものはなく、しかしながらただ純粋な「性」というものがあったように思う。
もちろんこういう「緊縛」って女を対象化する、モノ化するという点でフェミニストの批判を免れないんだろうけど、実際に写真や絵を目の当たりにするとき、そこに生じるのは男から女への下卑た視線で片付けられない、性そのものだとか、生命そのものへの不可思議な畏敬の念だと言ったら言い訳がましいのだろうか。ただ、あの異様な雰囲気の画廊に、美は確かにあった気もする。
緊縛写真が絵になった時、そこに象徴として現れるのはやはり花。そして蜂が股間を狙っている。あるいはイソギンチャク、男の象徴としての蛇、触手。それらの象徴の的確さとは一体なんなのだろう。なかでも、やはり女は花。それは明らかに、見られる対象として女がある、ということを示している。それが悪いことかどうか、私は知らない。だけど、花の名前が多く女性の名に使われたり、「さき」という名が女性に使われるのは、それに世の多くの人間がポジティブな意味付けをしているという証左だろう。


縄を胸部やら性器に食い込ませる、その縄を美しく縛る「縄師」なる職人まで存在するようなSMの世界ってのは、その歴史から言っても「オタク」よりも歴史のあるオタクだと言える。そもそも、なんで縛るの?って疑問は当然出てくるし、SMに限らないエロを巡る様々な技法ってのは、無意味なまでに濃密な情報量を有しているという点でやはりオタク的である。エロの歴史や幅の広さを見ることで、オタクである自分も学ぶべきことはあるんだろう。
エロを深めれば深めるほど、本来の性欲と思われたことからはるかに乖離していくように、アイドルヲタも深めれば深めるほど、一般人のアイドル好きとはかけ離れた地平にたどりつく。それは、食を追求すればするほど、食欲とは何の関係もなくなることに似ている。欲望ってのは一般的にそういうものなのかもしれない。