ラブホテルコレクション東日本編

http://lovehotelcollection.com/
ユーロスペースで土曜から公開。残念ながら土曜は仕事でトークショーを見に行くことはできず。「ラブホテル進化論」の金益見氏も映画に協力している。昨日は公開二日目であったが、客は12人ほど。カップルが長い夜への景気づけに来るかと思いきや、まあそれは土曜日の夜か。
この映画は、淡々と各ラブホテルの部屋を映し出していく。余計な演出はない(BGMはあり)。極力人間が映りこまないよう、つまりラブホテルという施設そのものだけを浮かび上がらせる。それだけで十分に映画として成り立つのは、ただひたすらラブホテルが多様性に満ち、無駄な豪華さと、バカらしさにあふれているからだ。見ていて飽きないだけの強度がある。当然だが、これが単に観光ホテルの部屋を映し出していくだけであったら、「映画」としての成立はしないだろう。
さて、あまりにも突拍子もない部屋を見すぎて記憶が定かでないが、各部屋を見ての感想を書いてみたい。
滅びつつあるものの、ラブホテルの代名詞と言ってもいい設備として「回転ベッド」なるものがある。ベッドが円く作られ、電動でゆっくりと回転するようにできている。効果的な照明と鏡に囲まれて、回転するベッドで行為に及ぶと、楽しい、のか?回転ベッドを見ていて思うのは、これがセックスの快楽度をいかに上げるかという目的というよりは、何か面白いことをやってみる、こんなことに金をかけるのかということを実現させてみる、というような、遊び心が先行しているのではないか、ということだ。
映画では、高級車を模した車や、有名人をモデルとしたようなオブジェ(?)や、世界各地の城や宮殿を模した部屋が次々と映し出される。これを見たとき、次のような見方があるかもしれない。つまり、ラブホテルは庶民が普通であれば体験できない、セレブとしての生活を疑似体験させてくれるものであり、ラブホテルは手に入らない高級品、一流の生活の代替物であるという考え方。これは、一面としては正しいように思われる。確かに我々は(と臆面もなく言うが)、ラブホテルにおいて一時的に「セレブ感」を味わうことができるだろう。しかしそれだけに照準したのではラブホテルの魅力を理解したことにはならない。というのも、ラブホテルの面白さは、そうした高級感に対して、自己言及的な諧謔精神をもって扱うところが見られる点にあるからだ。例えば、城や宮殿を模した部屋がどのように作られているかを見れば分かるが、当然本来広いはずの城や宮殿を狭い空間で再現しなければならないという物理的な制限があるにせよ、デフォルメと凝縮によってエッセンスのみを効果的に配置することで、いかにも城や宮殿といった、しかしながらどう見ても過剰な空間がそこに出来上がっている(以下のページで「ホテル迎賓館」の画像を見てもらうのがよいと思う→http://lovehotelcollection.com/#4 )。ここでは明らかにその過剰さ、そしてその過剰さが生み出す滑稽さに自覚的である。一方で夢見ながらも(そしてセックスというメタ化できない体験を含みながらも)、「過剰である」ことによって一種のユーモア(メタ精神)を感じさせるラブホテルの空間は、オタク的であるということも可能であろう。そう考えれば、代替物としてのラブホテル、というのではなく、積極的にラブホテルを評価するということが可能となるかもしれない。
強烈な印象を残したのは、「ホテル アルファイン」(http://www.hotelalphain.com/)である。多様な価値を含みこんだ東京という大都市であればこそ、このようなホテルが可能となるのだと思うが、ここはSMプレイをさらに細分化した各部屋により構成されている。縛る縄、ムチ、様々に拘束し、また拷問する器具、むき出しのトイレ。ぼくはいまひとつSMの世界が理解できていない。性欲という最も根源的な動物的な欲望において、なぜ役割演技であるSMプレイというものが成立しているのか、これは追求の価値のある問題だ。ただ、注意しなければならないのは、こうしたホテルのような極端な例でなくとも、ラブホテルは部屋ごとに意匠をはっきりと分ける場合が多いように思われることだ。客である我々が部屋を選択する行為は、その部屋に応じたキャラを選択し、演技することと言えるかもしれない。さしあたって無難な言い方をすれば、セックスという最も本能的と思える行為においてすら、演技と素なんて区別がつかないんだ、ということになる。
もうひとつ特徴的なホテルは、渋谷にある「HOTEL P&A PLAZA」「HOTEL ART P&A PLAZA」だ。例えば「HOTEL P&A PLAZA」の204号室(http://www.paplaza.com/room204.html)は、完全にデザイナーの好き放題であって、これが顧客のニーズに応えるものとは到底言えそうにない。それはエンターテインメント空間ではあるのだが、客に媚びた感じがしない。そして、もはやエロとはかけ離れた境地に達している。その点では、「HOTEL ART P&A PLAZA」がまたすごい。アーティストの趣味がエロを超越している様は2階フロアの様子を見ればおおよその様子が分かる(http://www.paplaza.com/art/guestroom.html#202)。202号室の他にも、壁にひたすらキノコが描かれた部屋があったり、極めつけは壁から内側を覗くように種々の人間が描かれている衆人環視の部屋があったりする(オタク風の男は股間を押さえながらこちらを見ているのだ)。このホテルはその名の通りアートを志向している。それでいてピンピンという、ユーモラスな、そして卑猥でもあるキャラクターを登場させる。


映画全般を見て改めて感じたのは、ラブホテルからセックスという要素を引いたら、何も残らないどころか、いろいろなものが余剰として溢れている、ということである。
語弊を恐れずに言うなら、エロというのはセックスを意味しないのではないか、つまりセックスの周辺にあるもの、セックスを包み込むオブラート的な何物かとしてエロなるものがあって、それを具象化したものとしてラブホテルというものがあったりする。ちょうどぱんつをスカートで一時的に包むことによってパンチラの美学が生まれるのと同様に、セックスを包む装飾物としてのエロがある、と考えるのはどうか。
また、偽物としての過剰性が、逆にそれそのものとしての自律性を獲得するという過程でラブホテルがアイデンティティを確立していたり、アーティストがラブホテル本来の目的とか存在意義を棚上げして自分の趣味に走っていたりと、とても一筋縄ではいかないラブホテルの複雑さに目がくらみそうである。ラブホテルはやっぱり面白い。


そして、言いたいのは、ラブホテルという現象は、アイドルとかなり似通っているということだ。この問題はまた後で語ることになるだろうと思う。