ハロヲタの僕がPerfumeを観る。その2

2年前、恵比寿のLIQUIDROOMでブレークしたてのPerfumeライブを見た。
ここは1000名程度の収容人数で、ちょうどブレークしたての頃だったため、ヤフオクで高騰したチケットは3万程度の値をつけていた。
当時のライブの感想はこちら→http://d.hatena.ne.jp/onoya/20071108


さて、Perfume横浜アリーナでライブを行った。
今回、ヤフオクではチケットが1000円に満たない金額で取引されていた。これはもちろん、人気がないのではない。人気があると、チケットが売り切れ、その中で悪い席位置のチケットは逆に値が下がるのだ。3万円が1000円になったということは、単純に考えれば市場に30倍のチケットが出回ったということで、単純に考えれば、人気が30倍になったのだ。チケットがバカ売れだった証拠に、立見だけでも相当数の客がいた。ただ、ヤフオクでは開始価格が高すぎたため、かなりのチケットが売れ残っていた。そのせいで、立見がいるのに空席がそれなりにある、という奇妙な状態になっていた。
ハロヲタとして懐古すると、今、自分のチケット保管ファイルを見ると、2001年秋のモーニング娘。ツアー、アリーナF立見のチケットが見つかった。当時、ハロヲタなり立てのぼくは、なにが楽しいのか分からないけど、熱に侵されたようにライブを楽しんだものだった。



ちなみに、自分はあまりハロプロ系、アイドル系以外のライブに行ったことがない。そのため、自分の身体が、完全なアウェイの感覚を、入場したときから鋭敏に感じ取っていた。
まず、会場の原色率の低さだ。ハロプロの場合、「ヲタT」と言われる、原色のファッションセンスのかけらもない自己顕示用Tシャツを着用する客が多いのだが、Perfume会場で目立つのはせいぜい水色のツアーTシャツくらいだ。会場外ではコスプレも少人数いたが、あとはPerfumeを意識したらしい多数の女性がいるくらいで、それは取り立てて目立つようなものではない。
さらに、歓声も違う。これは説明しにくいが、ハロヲタの歓声は滑稽なのだ。一方、Perfumeでの歓声は、指笛とよく似合う歓声なのだ(実際に指笛も起きていたが)。ハロプロ界隈では指笛はあまり起こらないし、似合わない。開演時間が迫ると、自然に手拍子が起こった。ハロプロ界隈だったら、メンバーの名前を叫ぶヲタが続出するタイミングだ。
もうひとつは、ライブ開始後の客席に、ほとんど光り物が見えないこと。ハロプロ界隈であれば、サイリウム・ペンライトといった光り物で埋め尽くされ、それがライブのありふれた風景であるものが、Perfumeライブ始まった途端、客席が暗くてびっくりした。ただ、照明の演出がすばらしかったから、光り物があったら邪魔だろうなとは思う。
…思ったより、自分の身体がアイドルライブという枠に統御されていたために、Perfumeのライブに体がついていかない。動きが地味すぎて逆に恥ずかしいというおかしなことになった。



Perfumeという、機械的なイメージを付与され、声に関しても機械的な処理に依存するユニットについて、ライブである意味というのは問いたくなる問題だ。2年前は、その答えを、曲とのギャップであるところの、MCでの人間性の発露に求めた。あーちゃんを中心とする、客席との相互作用も含みつつ進む、MCでの奔放さ。それがあってこそPerfumeは完成するのだと。
確かに、今回もその意味ではあーちゃんは明らかに意図的に、「人間」であろうとしたように思う。それは執拗な観客いじりに表れた。はじめのMCでは実に30分以上に渡って、延々観客の服装、ボード、旗、タオルをいじり倒した。そして「声出し」。「男子!」「女子!」「めがねかけてる人!」「コンタクト!」など、それに合った人が声を出すというもの。これも正直ぼくにはしんどかった。それほどまでに、過剰に客席と相互作用し、また一体感を作ろうという意図が強く見えた。
2年前、「Perfumeはライブハウス向きのグループだとは思った。それ以上大きなところだと、今回のライブのような幸福感は味わえないかもしれない。」と書いたが、今回の横浜アリーナで問題だと思ったのは、客席とのやり取りで、やはり会場が大きすぎるせいで、相互作用がずれてくるという問題だ。近くの客と、遠くの客で反応にどうしても時差が起こって、なかなか統一感が出ない。客いじりをしながらも、そうしたもどかしさや、遠くの客をいじったはいいが、なかなか声が届かなくてうまくコミュニケーションが取れないという場合もあった。大会場での難しさだろう。
そうした一連の振る舞いの過剰さにちょっと食傷気味になってしまったぼくは、2年前と逆に「Perfumeって、それなしでもPerfumeなんじゃないのか」と問うてしまった。ぼくには、MCがライブの雰囲気を、曲の流れを断ち切ってしまっているように思えた。ライブとMCがそれぞれ全く別のことをやっていて、それが魅力なのか、ただの断絶なのかどうにも判断ができない。
おそらく「edge」だったと思うが、舞台セットに彼女たちの映像が現れ、それが上昇した先に実物の彼女たちが登場し、また彼女たちが自らの映像と向き合いながらダンスをしたりする。改めて、彼女たちの身体は必要なのだろうか、という問いがせり出してくる。必要だ、という答えにはなるのだが、なぜ必要なのか。例えば、「Animelo Summer Live 2009」に出演した初音ミク(下の動画参照)とPerfumeにどのような差異があるのかと問うた時に、決定的に何かが違うという感覚がある。だけど、ぼくはそれを、MCにおけるコミュニケーションの可能性にのみ求めることができるだろうか、とも思う。

印象に残ったのは、ライブ終盤、テンションの上がったあーちゃんが、曲の途中でも甲高くキャッキャッと声を張り上げていたことだ。ここなのかなと思う。つまり、決められた枠があって、でもそれをはみ出してしまう、その逸脱。凡庸な結論だが、そうした一回性、そこでしか見られないものをぼくは求めているのだろうか。ただ、あーちゃんの長いMCは、その長さ自体が演出の中に組み込まれている(はじめから織り込み済みの)ような感じがして、ぼくは飽きてしまったのかもしれない。
結局はぼくのアイドル観によるものでもあるのだろうけど、型にはめようとする外圧と、内側から湧き出してくる生命力のせめぎあいの中で表れ出てくる一回性の表現に惹かれる、ということなのだと思う。それを常に発見していくことが、ライブにおける自分の大きな楽しみなのかもしれない。