ヲタ視線(2)


前回の日記、図中の番号と文中の番号がうまく対応できてないではないか!ということに今日気づく。チャー様からの問題提起も踏まえ、整理しなおします。
明らかに直さなければならないことがもう一点。
図の視線②を「ネタを本気で」は、完全に自分の書き方がまずい、というか自分も勘違いしてたというか。
正確に言えば、「ネタを本気で扱っているかのように振舞う」です。
視線③「虚構を虚構として」も意味が捉えづらかった。「現実」と対置させられるという意味での「虚構」ではなく、「虚構」の世界にどっぷり浸かって、その世界を相対化、ネタ化できない程度に没入している状態を指したかったんです。
だからチャーさんの典型例の視線②・視線③が僕の考えるものと逆になってしまいました。
もう一度、自分のためにも分かりやすく説明しなおしてみます。

視線①:「まじめに応援」―アイドルを人間(人格的存在)と見なす。アイドルの内面も含めて応援、成長を暖かく見守るイメージ。現実的にアイドルとコミュニケーションをとりたがる。(ハガキ職人というのは極めて適切な例だと思います。)
視線②:「虚構を虚構と自覚した上でそれが現実であるかのように振舞う(あるいはそれに本気であるかのように振舞う)」―現実的には価値の低いものに拘泥し、注力するが、その「バカバカしさ」には自覚的。アイドルをどちらかといえばキャラ扱いする。(社会学大澤真幸が言ったところの「アイロニカルな没入」である。)
視線③:「虚構世界に没入しきる」―視線②のネタ的な側面(意味付け・内容)が消えて、行動(形式)のみが残る。アイドルは虚構の存在という色合いが強まり、自らもまた実存的存在というよりは「キャラ」と化してしまう。傷つかないかわりに、成長もしないという、悪く言えば現実逃避状態。よく言えば、楽園に安住。
視線④:「現実をネタに」―アイドルの現実的側面(特にスキャンダルが主になるか)を、ネタ(楽しむためだけの物語)として消費する。深刻な問題を茶化す。梨華ちゃんの「大の大人が」発言はマジヲタにとっては大変な問題であっただろうが、視線④をもってすればおいしいデザートでしかない。文化祭での環境問題の訴えも意味を剥奪され、見事にヲタの馴れ合いの現場へと化す。

さて、以上を踏まえて。
チャーさんの 「リボンの騎士」が視線①ってどーなのよ、という意見に答えていきたいのですが。
僕は「リボンの騎士」を取り巻く現象は、ヲタのスタンスがさまざまある中で断定的に言えないにせよ、総じて視線①を喚起された出来事であると捉えています。それは舞台としてその現象を見るのではなく、アイドル現象として見ているからで、そういう意味で、「舞台という虚構」に対してはメタ的な視点に立っていると言えるかもしれませんが、今回は「アイドルへの視線」を問題にしているわけです。そのことでも分かるように、何を準拠点にするかで「メタ」か「ベタ」かは入れ替わってしまいます。ハロー関連の舞台は、基本「アイドル先にありき」であるため、舞台が舞台としてあることも相対化されがちです。
話が若干それましたが、まさに脚本家の木村信司がパンフレットで書いていたように、「アイドルが人間であること」を前面に押し出したのがこの舞台だったと思う。視線①「まじめに応援:愛ちゃんよかったね」もそういうことです。ただ、僕にとっては視線③「虚構を虚構として:サファイヤにとってのヘケートとは」も実は視線①と分類できるんじゃないかと思っているんです。
ここにおいては、「現実」と「虚構」をどういう意味において使うかが問題になってきます。僕は、この舞台において「役柄を演じる人間(現実?)」も、「役柄相互の関係(虚構?)」も一緒くたに「人間が舞台に臨む現象全体」という「現実」として捉えてしまっていいと思うわけです。確かに「愛ちゃん」として見るか、「サファイヤ」として見るかで、「現実」「虚構」という使い方が出来そうですし、他方は背景化してしまう、という点でここで「メタ」「ベタ」という使い方を出来そうですが、しかしどちらも舞台の見方としては間違ってない。舞台を否定する方向性ではない、という点で同じ①「現実的ベタ視線」に分類したい気分です。
では舞台において③「虚構的ベタ視線」が出てくる場合はどういうものかと言うと、「リボン」以前の娘。ミューです。ここでは舞台という枠そのものが脆弱だった。もちろん頑張って舞台に臨んでいることを応援する①「現実的ベタ視線」がある一方で、グダグダなアドリブ劇を楽しむ、「表層的なアイドル消費」であったという点で視線③があったのではないかと。例えば今年9月のシニアグラフィティでも、僕は舞台の役柄をうまく演じている辻を見に行ったのではなくて、結局「辻性」なるキャラがはっちゃけている様を見に行ったのです。だから、同じ舞台であっても、正直行って僕は「リボンの騎士」の辻を評価できなかった。面白くなかった。そんな差異をはっきりと感じてしまう二つの舞台ではありました。
ここで、「現実」「虚構」ではなくて、「意味」「形式」という概念を図に当てはめてみたらどうだろう、と試しに考えてみます。
すると、「リボンの騎士」では「人間高橋愛」であれ、「サファイア」であれ、「意味合い」を問うていることではかわりありません。一方以前のミューでは、そうした側面もありはしましたが、「物語」に没入するというよりは、アイドルの形式的側面を楽しんでいた気がします。

視線①:意味ある世界を意味あるものとして受け取る。(理性的)
視線②:形式から意味を読み込んでいく。
視線③:形式に形式的に感応する。(感覚的)
視線④:意味を剥ぎ、形式のみ取り出す。

こんな書き方もまたできるかと。
…「虚構」って言葉、使いにくいなあ。