単推しとDDはどちらが倫理的か?

これを問う可能性について僕はすっかり抜け落ちていたようだ。
僕のこれまでの考えはこうだ。単推しであるということは、アイドルを固有名詞として愛するということ。アイドルの権威を保ち、アイドルがアイドルでいつづけることを支える。一方DDは、いろんなアイドルを応援することで、アイドルの代替可能性を露わにしてしまう。アイドルの権威は弱まり、アイドルを短命に、結果としては滅ぼす方向になる。
…果たしてそうか?その見方は正しいか?


例えば学会でたしかいまむー氏が指摘したように、グラビアアイドルに関して言えば、マイナーで少数のヲタしかついていない時代に応援していたヲタは、そのアイドルが有名になったら、同じ事務所のデビューしたてのアイドルに乗り換える。マイナーであるときのみ応援して、大きくなったら乗り換える。これはハローにおいても見られることだ。娘。→ベリ→℃-ute→エッグ(真野)みたいな。
昨日映画「キサラギ」を見てきた。2回目だ。その中で気になった場面。なまじファンがいたから、頑張らなきゃいけなかった、ファンがいなければ引退できたのに、というようなセリフを小栗が言うところ。
ファンがいなければアイドルは存在できない、しかし逆に言えば、ファンがいる限り、アイドルはアイドルでいつづけなければならない。僕は、アイドルの期間を限定するか、負担を減らせと考えている。ということは、そうしたアイドルの負担減を実践しているのが他ならないDDのヲタ達ではないのか?それは一面では、一番輝いているときのみ応援して、飽きたらさっさと推しを変更してしまうせっそうのなさとして批判されるべきものかもしれないが、また一面として、アイドルを守り、アイドルが人間に戻るということを諦観をもって受け入れてあげる寛容さともいえるのではないか?
我々があるアイドルをずっと応援しつづけた場合、どこかで別れがやってくる。そのときに我々は駄々をこねるのか。置いてかないでくれと駄々をこねるのか(http://d.hatena.ne.jp/onoya/20070525/1180119642も参照のこと)。であるよりは、笑って送り出すか、あるいはそれよりも、そんな別れがやってくる前に、こちらから別れを告げる、それが最もよい作法ではないのか。


僕は悩む。アイドルを愛することができるのか。アイドルを愛するということはそのアイドルを固有名詞として捉え、代替不可能な存在として認めること。でもそれは、アイドルがアイドルであることから逃れられなくさせるという暴力でもあるのだろうか。
一方、アイドルを、アイドルという普通名詞として見ること。愛さない。アイドルを愛さない。交換可能なものとして、消費する。アイドルを商品として思うがままにする。それは一見紛れもない暴力なのだが、しかしアイドルとして消費しているのであって、「アイドルである誰々」に対しては向かわない。その割り切り方は、ある人間を「アイドル」に束縛しないという倫理性をも含むのではないか。
結局はバランスでしょ。でも、僕は愛したいのに。それは不可能か?…どうですか?