新宿京王百貨店の大北海道展に行く 〜パフェにおける超越性のお話〜

新宿の京王百貨店7Fの催事場にて、「大北海道展」が開かれている(9月11日まで)。
出展している雪印パーラーのパフェを食べてきた。





まるごと梨のシャッキリヨーグルトパフェ(雪印パーラー)1680円

完食時間:17分

見た目の美しさ ☆☆☆☆☆
一貫性 ☆☆☆☆
おいしさ ☆☆☆☆☆
コスパ ☆☆☆
独創性 ☆☆☆☆
興奮度(ふるえ)☆☆☆
総合 4.0



構成:第1層は生クリームと梨13片とアセロラ? 第2層にフローズンヨーグルト(多分梨の果実入り)、生クリーム、ヨーグルト。第3層はスポンジケーキ

所感:梨がこれだけ入ってて、しかもうまいことグラスの縁に沿って並べられていたら、そのインパクトで勝負できるよなあ。梨とかりんごを剥いたら、種のところを避けるから「く」の字になるけども、そのへこみの部分をパフェグラスの縁にあてることで、バランスよく梨を並べることができ、また見栄えもよい。
梨とヨーグルトの相性は抜群によい。白色で、味もさっぱりしている。パフェ全体の統一感が出るのだ。
梨は少し固かったものの、甘味は十分で、それを食べるだけでもだいぶ時間がかかる。時間がかかる=それに没頭する、ということ自体が至福である。生クリームはさすが雪印で、牛乳の濃厚な風味、甘味を感じられる良質なもの。




さて、今日はパフェを食べる環境について述べねばならない。パフェを食べた現場は京王百貨店の催事場の一角。当然、パフェのために最適な空間ではない。調理場も見える狭いカウンター席でパフェを食べる。画像でもわかるように、目の前に洗い場があったりする。後ろでは他の店と、その客がわいわい、猥雑な雰囲気を醸している。
ところで、目の前でパフェが作られる様を見るということは、複雑なものだと感じた。パフェ体験にとって良くないことは、パフェがどのように構成されているかをネタばらしされてしまうという、驚きの可能性の消失。そしてもう一つ、当たり前の事実――人がパフェを作るのだという現実を突きつけられることだ。そこにおいて、パフェの神秘性は減ずる。パフェが人の世を超越した美しい世界の存在と信じたいならば、それが作られる過程で人間の手が加わっていること、あるいは、そもそもパフェがもとからそのような姿ではなく、無い状態から作られるものであることを知ることは不幸でしかない。パフェ(=parfait完全なるもの)が完全でないもの、有限なるものであることを知らされるのは、神が死ぬという事態にも等しい、のか。
一方で、作る過程を見ることによるメリットもないではない。それは、よりおいしく食べる道筋をこちらで考えることができるということだ。ご存じの通り、筆者はパフェの第3層(最下層)がどうなっているかということを重視しているが、今回のパフェは、残念ながら最下層がスポンジケーキであった。これはいささか物足りない。だから、上層の梨の果実やフローズンヨーグルトを多めに残しておいて、味覚の最終局面をスポンジケーキが多く占めることのないように工夫できた。もしかすると、多くのパフェ民の方々は、そんなの常に普通にやることだと考えるかもしれない。しかし本当に考えつくされたパフェは、上から自然に食べていくだけで、もっともおいしく食べられるように計算されている、と感じる。たとえばタカノフルーツパーラーのパフェはそうやってできている。やはり、自分としては能動的に働きかけてパフェを食べるよりも、パフェを食べさせられるという受動性の方が好ましい。


こんなことをいろいろ考えていたら、超越性というものの二つの側面に思い当たる。それはパフェで言えば、神の創りたもうた至高の存在としてのパフェか、それとも人間の技巧がなせる最高の作品としてのパフェか、ということである。
目の前でパフェが作られることは、一見神の存在を否定せざるをえないことのように思えるかもしれない。しかしながらそこにおいて創り出されたパフェが、なおやはり「神」という言葉によって表したくなるほどにうまい、ということはあるだろう。この点において、決してAKBにおいてしばしば使われる「神」という語をただネタとしてのみ捉えるわけにはいかない、と言える。言いたいことは、はじめから完全なるものとして表れていないものが、何か人間の普通でない営み・技術・力・偶然を経由することで、超越性にたどり着くことがあるということだ。
いったい何の話をしていたのだったか。
しかし確認をしておけば、それら二つの超越性というのは截然と区別できるものではない。そのことはアイドル現象を見れば分かりやすいだろう。もはやアイドルは「衣装」を究極までに剥ぎ取られているけれども、それでもなおアイドルの超越性は消えない。それはアイドルが見せる「努力」や成長過程を消費するその蓄積において我々が創り上げているとも言えるし、それでもある瞬間に一人の少女が神々しい存在として立ち現れる(―それはもう我々ヲタの能動的営みとは全く独立のもののように―)ということがある。


だいぶ話が長くなった。超越性というのは、結局のところ神的なるものとの交感の可能性のことなのです。ぼくはどちらかと言えば、パフェは人間が作ったものじゃないと思いたい。つまり、「こんなフルーツカットの技術が!」というよりも、「このパフェのうまさはこの世のものとは思えない!」というように超越性を感じていたいのです。でも、前者のこともやっぱり頭にはあるのです。




…ところで、大北海道展でピザを売っている「おおともチーズ工房」って店、「おとももち」にしか見えないよ!「ベリーズ工房」ともすごいかぶってるし。