目黒果実園にて、「今月のパフェ」を食べた

いまさらの話だが、6月12日、目黒果実園にて、今月のパフェ(900円程度)を食べた。
残念ながら画像はない。これは画像で残したかったのだが。というのも、このパフェは平らな皿に盛り付けられたものだったからだ。
平らな皿に盛り付けられた平面的なデザートを、「パフェ」と呼びうるだろうか?否応なくパフェの定義問題を惹起するパフェである。「パフェ」と言えば、どうしても高い器に上下に層を成すデザートと思いがちである。しかし目の前に展開するパフェとやらは、丸く平たい皿に盛り付けられている。いやしかし、内容物はパフェと変わらないのだ。ただその形状のみによってパフェがパフェたりうるなどということがあるだろうか?
さながらこれは「アイドル」の構成要件とは何か、と問うような茫漠とした模索である。絶対の条件などない。とにかくも、人がそれをそうとして認めるところのものがそれなのだ、と嘯いてみようか。パフェと名づけるのは店側の都合だけれども、差し出されたそれを、私は確かに「パフェ」である、と感じたのだ。
さて、「今月のパフェ」はメロンとスイカを中心としたつくりであった。その他、さくらんぼ、イチゴ、ドラゴンフルーツ、生クリームにバニラアイス、イチゴアイスといった内容。いつもであれば層を成すパフェを上から攻めていくところだが、平面的なパフェをどう攻めようか、そのセットリストは自らに委ねられている。「普通」のパフェに比べ、我々の能動の余地が大きく残されているパフェである。それに戸惑う自分もいる。これがパフェだろうか?けれども、それはもしかすると「アイドルに超越性を求めたい」とする自らのアイドル観と通低する、自らに刻まれた思想の証左かもしれない。
そんなことを考えながらゆっくり食べていると、アイスが徐々に溶けていく。特にイチゴアイスが溶けてスープ状になり、ピンクの液体がフルーツを浸す格好になる。それもまた良質のソースとなる。果実園だけに、当然各々のフルーツの味は確かだ。その中でも、メロンの果実力は正気の沙汰ではない。と、ここで気づくのは、これほどまでに熟したメロンを使う場合、高い器の周囲に立てて配置するということが難しいのではないか、ということだ。フルーツを立てるには、ある程度の硬さが必要だ。完熟のメロンは、その柔らかさのためにもはや寝せるほかないということではないか。歯を使わず、舌で食べられるほどに熟したメロン。それにしても、脳に甘味が直接届くかのような、脳で味わうかのような衝撃的な甘さである。感覚が極度に鋭敏になる時、客体と主体が混同を始める場合があるが、この時、私は「食べてるのか、食べられているのか分からない」とでもいいたいような陶酔の只中にいた。いままでのパフェ体験の中で至高のものであると言って差し支えない。
ところで、これら食されるために美しくしつらえられた果実たちは、その生命力の発露を、彼らの生殖性を切り詰めたところにおいて危うく我々に示している。種無しの果実さえあるように、果実におけるまっとうな生殖の埒外において、彼らは蠱惑的な魅力を放っている。それは生命力を人工的に管理し、商品化したものである。もちろん私は、ちょうどそれがまっとうな恋愛を禁止することで魅力を保ち、増幅させ、危ういバランスの下に成立している女性アイドルの世界と重なることに、刹那の哀しさを感じて酔っているのだ。ただいずれにせよ、私は果実をむさぼる。それが食欲なのか、性欲なのか、もはや判然としない。いっそパフェへの愛と言っても、構わない。