2010ハロー!プロジェクト新人公演3月

3月27日横浜ブリッツ。夜公演を後ろの方で。
新人公演はなぜか見に行きたくなる。絶対に見たい推しがいるわけではない。でもアイドル現象の新しい潮流が生まれる場、そして現場の雰囲気がリアルタイムで醸成されていく場というのは、その場全体として目が離せない、というか、五感全体としてそそられるものだ。
さて、もう記憶がなくなってきたがかんたんな印象を。


しゅごキャラエッグ!は、ともかくジュニアアイドルの危うさが出て、面白い。田辺以外の3名に、それぞれジュニアアイドル臭がする。そして田辺奈菜美がちいさいので笑う。ヲタって、ちいさくて推しようがない子に対しては、笑うしかないような気がする。
しかし新人公演で一番注目してしまうのは、やはり平野智美だ(以下のnhokuto氏のエントリも参照のことhttp://d.hatena.ne.jp/nhokuto/20100327)。エッグに異形が2人いるとするならば、院生と西念ということになろう。一方は笑わない院生、一方は歌も踊りも顔も、三拍子そろわない西念。それにしても、10歳の田辺と一緒のステージに26歳の院生が立っているのは、異常。別に26歳のアイドルなんて普通なのに、ティーンエイジャーのエッグたちの中に混ざって、しかも無表情で踊るのは、異常。アイドル現象が、ファン側とアイドル側の双方によって作られるゲームであるならば、そのゲーム内の規則というものが重要になる。エッグにおけるルールというのが、たとえば「いたいけな少女を愛でる」というようなものであったとしたら(つまりそれは日常の規範からは外れるアイドル世界内の特殊なルールのだが)、アイドル側の院生がそのルールを自ら破壊していくということになる。ハロプロでぼくが面白いと思うのは、ハロプロ内に常にこうした異形が、既成のアイドル概念・ルールを破壊・相対化する形で配置されていることだ。保田圭しかり、前田有紀しかり、西念しかり、院生しかり。決して安易な没入を許さないような、多様性に開かれている、というのは良く言いすぎかもしれないが。
ただ一方では、アイドル現象は、常に既存のアイドルを相対化する形で自らを差異化づけてきたと言うこともできる。あえて逆を取ることによって、または、あえて過剰にデフォルメをすることによって。そもそも「アイドル」が、歌や踊りや衣装で飾ることでその存在を引き立てることによって間接的に伝わるものであるとするならば、「これがアイドルである」などという定義を確固として措定することには無理があるだろう。あえて言うなら、アイドルはその時代の中で、送り手と受け手を含めた場における不断の折衝によって常に暫定的に存在し、その定義を自ら更新し続けなければならない存在ということができるかもしれない。



北原沙弥香スマイレージを送る感動的なセリフを述べていた時も、院生はあまり表情も変えずにいたように思う。笑わないアイドルは、いないわけではないけれど、でも、なぜそんなに楽しくなさそうなのにここにいるのか。
そうやって気にしていて、握手会があった時に、自分にだけ院生が笑ったら、推しになることもあるかもしれない。こわいこわい。知らず知らずの関心が、アイドル現象への加担の第一歩だということは確認しておかなければ。