アイドルユニットサマーフェスティバル2010

月曜(8/30)に行ったイベントのいまさらのレポ+考え事。
娯楽道で11列が定価割れの4000円。ライブが3時間続くと分かっていれば、もう少し相場が上がったと思うのだが、ヤフオクでも軒並み定価割れで取引されていた。
会場のC.C.Lemonホール前の路上で、制服向上委員会のメンバーが制服姿でビラを配っていた。ひさびさに見た。多分こないだまでAKBN0で活動していたメンバーもいたのかな。
会場前に、グッズ売り場はそれぞれのユニットごとに、そしてこのイベント仕様のグッズの売り場として、計5箇所用意されていた。他のファンも取り込もうと、販売スタッフはやる気十分。
会場のファン層はどうかと思ってきたが、特にそれぞれのファンが反目したりするほどはっきりとした違いが分からない。「アイドルファン」という一つの集まり。特にヲタTのような原色の集団も多くない。

入場。左隣のおじさんはSKEと書かれたペンライトをもっている。前の席には威勢のいい二人の男。
開演。吉田尚記アナの司会で始まる。ヲタの皆さんに今日だけはDDになってくださいとお願いする吉田アナ。これは自分も懸念していたことだが、他のユニットの時に全然盛り上がらない(下手すりゃロビーに行ってしまう)ということも考えられる。アイドルファンはしばしば個別のアイドルファンであって、アイドルという現象全体のファンではない(かくいう自分もAKB方面に対してどうしてもなじめない感覚がある)。そうしたことにはじめに歯止めをかけておく、これはよいことだと思った。そうしないと、なんのために複数ユニットで集めているのかわけが分からなくなってしまう。
先鋒はももクロ。これは予想通りだし、多くの人が認めていることだが、ももクロは場を暖めるという点において他の追随を許さないユニットになっている。ともかく勢いでどーんと来る。知らないファンでも巻き込まれるし、知らない曲でもなんかわくわくさせる。別に口パクとかどうでもよい、と思わせる勢い。
続いてbump.y。これも順番としては予想通り。bump.yは現場の空気感に慣れていないので、まだヲタいじりをできる段階ではない。そういう意味では一番客層とのギャップが心配されるユニットではあったが、ヲタの暖かさと、最年少メンバー宮武祭(まつりたん)へのがっつきによってなんとなく成り立った感がある。
続いてSKE48。SKEがトリだと思っていたら、まさかの3番手(31日はトリだった模様)。SKE出演メンバー全員の自己紹介は冗長と思われたが、ただメンバーの自己紹介というのは重要だと思わされた。そこでお約束のファンとのやり取りも制度化しておけば、そのメンバーへの好感度は自ずと上がってしまうだろう。ももクロにおいても、SKEにおいても、ファンとの掛け合いにおいて自己紹介が成立する――これはアイドルがファンとの相互作用(共犯関係)において成立するということを端的に示していて面白い――ことは、ファンとアイドルとの内輪空間を強化するだろうし、一方でこのような多様なファンが来場するイベントにおいて、他のファンをへたすれば疎外してしまうという危険もある。囲うのか、開くのか、アイドルの方向性について考えさせられる。
SKEの曲は知らない。予習しておけばよかった。それにしても、よくMIXが入る。威勢のいい前の席の二人組はひたすらMIXを入れている。「よっしゃいくぜー!」……ふーむ。自分がMIXについて違和感があるのは、単調に思われること、ただ叫びたいだけじゃないかと思えること、叫んでいることの意味が分からないこと、なんかうるさくて迷惑なこと……さて、この根拠のあまりの弱さに戸惑う。「ただ叫びたいだけ」だったとして、それのどこがいけないのか、お前は「叫びたい」だけと比較して正統化されるどのような高尚な目的でここに来ているのか、そしてそうした目的で来ることそのものが適切であるのか、問われると何も言えなくなってしまう。「意味が分からない」も、ヲタは意味の分からないことをしてなんぼだと言われればそれまでだし、「うるさくて迷惑」だなどと、あの現場で一体誰が言い得るのか、黙って見るのがアイドルのライブだなどと、ぼくは到底言えそうにない。というわけで、MIXに出会うたびに、それぞれのヲタの価値の闘争を思う。究極の根拠なき闘争、とはいえ、その内部における価値付けにはそれぞれ理由はあるにはあるのだ。たとえば、「おまえら推しメンでオナニーする?http://www.iamyourenemy.co.uk/whg/2010/09/post_108.html」のような議論の根底にある個々人の価値付けというのも、非常に興味深いし、そうした言説の集積がアイドルという「場」をさらに強化していく。そのダイナミズムが面白い。
トリで出てきたスマイレージ。歌詞を飛ばすことで生歌であることをアピールし、さらに着席しているファンを立たせ、新曲の振りの練習をし…となかなか好き放題にやってくれる。自分はハロヲタだから、スマイレージがトリを見事に務めた、と感じる。他のファンにはどう映っただろうか?



アイドル戦国時代という名の下に、アイドルユニットの競演が続いている。その中で、ファンの側の価値付けの対立が顕在化する機会が増えるだろうと思う。その現場においてどのように平和にイベントが進行できるのか、あるいはファンが殴り合う文字通りの戦国時代もまた面白いだろうか。
ところでSKEはMCの中で、「自分たちはアイドルらしくないアイドルである」と言っていたが、こういった物言いはもう聞き飽きた。聞き飽きたが、重要なのはアイドルがアイドルとして売れるためには、ただ「アイドル」というのではダメで、アイドルの○○という固有名として認知されなくてはならないということだ。つまり、アイドルは、アイドルとして売れるために、他と差異化され個別的に認識されるという意味で、「アイドルらしくない」必要がある、という逆説を抱えている(「○○ドル」という差異化が顕著な例である)。そんな自己言及的な営みが常であるから、「アイドルらしさ」というものが、あるいは「アイドル現場のあるべき規範」というものが、常に見直され、各現場で固有に生成し、進化していく。そうした各々の文脈においてそれぞれの「アイドル」が楽しまれる。だから、アイドル現象を見ていくときに、アイドルとともに、ファンそれぞれがそれぞれのファンとしての歴史をその身体に宿しながら、現場に臨むということを認識することは重要ではないかと思う。それは無意識に身体化されているがゆえに、その身体化された性向と矛盾するものに対しては、生理的に、つまりは大した根拠もないように思われながら拒絶してしまうのだ(ぼくのMIX嫌いもその一つだと思われる)。
ファンとしての歴史が身体に刻み込まれた存在としてのファン(ヲタ)は、アイドルが他と差異化付けをして固有性を獲得するのと同様、同じものが他にないただ一つの歴史を有するという意味で固有の存在である。ヲタがしばしば典型的なアイドルオタク像を作り上げて、それを非難することで自分はまだましなオタクである、というスタンスをとるのは、自分という個性が抹殺されてしまうことへの拒絶なのかもしれない。アイドルがアイドルらしくなさを指向するのと同様、オタクもオタクらしさの中心からは距離を置こうとする。それでも決して彼らは「アイドル」という場の外へ出ようとはしないだろう。あるカテゴリーを選択しながら、その中の典型にはなろうとしない、そうした立ち位置をめぐる闘争が日々行われている。
ところで、「アイドルらしいアイドル」という呼称が、アイドルにとって必ずしもいいものではない(というよりは、アイドルらしさが常にその時代時代で構築されていくがゆえに、「アイドルらしいアイドル」という場合多くはある特定の(時代の)アイドルのパロディとしての意味しかない)のと対照的に、歌手や役者であれば、歌手(役者)らしい歌手(役者)というのは、普遍的な価値を有しているように思う。歌がうまければ歌手の価値は上がるし、演技がうまければ役者の価値は上がるが、アイドルにはそうした明確化された基準などない。このように、そこにおいて目指すべき絶対的な価値がないということも、闘争を激しくさせる要因ではないかと思う。つまり、ぼくらは根拠のない、正統化されえない価値を掲げた初めから不毛な闘争をせざるをえない(また、その闘争そのものがアイドル現象を存続させる)。逆に言えば、その闘争はその時代の「アイドルらしさ」という価値を賭けた戦いであり、スポーツのようにあるルールの下での戦いではない。むしろ、そのルールをどうするかの戦いなのだ。「アイドル戦国時代」という語は、まさに時代の価値の覇権を賭けた群雄割拠を表す言い得て妙ではないかと思う。そこで生き残ったアイドルこそが、「アイドルらしい」のだ。
(なんだか2つの「アイドルらしい」が出てきて混乱しそうなので説明しておくと、その時代のアイドルらしさのルールを作ったアイドル(例えばモーニング娘。やAKB48のように「アイドル」と聞いてすぐに思いつくような、参照点とされるアイドル)と、そういったものを参照することで成り立っているパロディとしてのアイドル(典型的にはAKBN0)との違いです。人気の、時代の象徴となるアイドルは、自らが参照点となるという意味で、「アイドルらしい」のですが、そのアイドルらしさの根拠は、そのアイドルがアイドルとして成功したからに他ならないという、自己言及的な性質を有しているのがアイドル現象の特徴ではないかと思われます。)