映画『アリーナロマンス』

映画『アリーナロマンス』を借りてきて見る。ネタバレします。
あらすじ:アイドルヲタである主人公ミツルが、同級生で男性アイドルのオリキをしている女子高生・舞華と仲良くなり、歌手になるという彼女の夢をかなえるために、アイドルのオーディションを受けるように勧め、応援して、結果彼女はアイドルになる、というお話。
まずはアイドル界隈の諸々細かいディティールに関しては、監督もヲタということで説得力のある演出。出待ちだとか、オークションで転売とか、いかにもなヲタ世界が描かれる(でも「萌え」と書かれたハッピはさすがにないんじゃないか)。あとボイトレの先生がオカマっぽいのもよい。
こういう映画になると抜群の存在感を発揮する掟ポルシェはさすがである。昨年のテレビとネットのドラマ「シャワーGirl!」にも出てたな。掟は「校長」と呼ばれる役だが、ストーカー行為を非難し、アイドルのプライベートには首を突っ込むな、というスタンスのヲタを演じる。アイドルを愚直に愛するシリアスな役とは言え、はっぴ姿の彼はいかにもヲタヲタしい雰囲気をしっかり醸していてすばらしい。そんなことよりも注目しなければいけないのは、「校長」が飲み物を飲んでいるときにあからさまに小指を立てていることだ。
さて、昨年からヲタを肯定的に扱った作品が複数見られる。映画『キサラギ』にせよ、『シャワーGirl!』にせよ、この『アリーナロマンス』にせよ、オタクが変態的なまでに対象に愛を捧げることが虚構として描かれることで、逆に「純愛」であったり「一途」「一生懸命さ」という主題を織り込んでいく。虚構の中のヲタはまったく無害なので、その変態性は笑いの要素となり、その一途さがシリアスな「泣き」の要素として、バランスの取れた作品になるということだ。
しかし、この『アリーナロマンス』という作品はそのシナリオが、まあいかにもヲタ界隈の事情を知っている人の作るものという感じではあるが、いささか極端すぎるのではないかと思う。主人公ミツルと同級生・舞華は、ヲタ活動をする中で「現実」にぶちあたってしまう。ミツルはネット上に晒されていたアイドルの住所を見て、帰宅するアイドルを盗撮していたが、ある日アイドルが恋人とキスするところを目撃してしまう。舞華の方は、オリキのルールを破り、個人的にアイドルに接近したために、オリキ仲間にリンチされた挙げ句、「トップさん」(石黒彩)からアイドル現場の出入り禁止を言い渡されてしまう。(ところで、舞華は、ヲタ資金を稼ぐために「ウリ」もやっていたのだった。)
さて、お互い失意の中、舞華はアイドルのオーディションを受けてみると言い出す。ところがそのための衣装やらの資金を、ミツルはオークション詐欺によって稼ぐのだ。オーディション当日、舞華を送り出した後、主人公は逮捕される。
舞華はアイドルとして成功し、終盤にはライブのシーンが流されるのだが、これはハッピーエンドなんだろうか?ケータイ小説ばりに極端な「現実」によって、「一生懸命さ」を表現しようとする安直さを感じてしまう。普通に考えれば、舞華は過去の「ウリ」やらオリキをしていた事実を晒されてアイドルとして失速していくだろう。
最後のシーンでミツルと舞華は喫茶店で笑顔で向かい合っているが、これは舞華がアイドルとして成功したことを表していない。ただこの男女の恋愛の成功を表しているだけだ。その現場を舞華のヲタが見たら、それは主人公がまさに経験したことと同じである。


監督はヲタを描きたかったのか、それともヲタを材料に恋愛を描きたかったのか?少なくとも典型的なヲタを演じた掟ポルシェはストーリーの本筋からは完全に取り残されてしまう。この映画のHPのストーリー解説には(恋愛で)「好きなヒトの「オタク」になってしまう」という表現もあるが、一途に熱中することをひとまとめに「オタク」の語でくくろうとする感じでよろしくない。
映画序盤のミツルと舞華の会話が端的にオタクの境界線を示している気がする。「何で髪型とか服にそんなに無頓着なの」「好きな人に会いに行くんでしょ」と言う舞華。オリキは対象から見られる、ということを意識する。ハロヲタにおいても、確かにアイドルと接点を持てるような「強い」ヲタは、現場で派手なTを着ていることは絶対ない。普通の若者然としている。
つまり、アイドルと実際に仲良くなろうとしているかどうか、という対アイドル関係のスタンスの違いが明確になる。よくオシャレをしろ、と言われるヲタだが、少なくとも現場においてハッピやTシャツを着るヲタは、それによってその場が「アイドル―ヲタ」としての関係性なんだよという表明をしているという意味で、アイドルの人間的側面を守っている、という言い方はできる。それに比べ、オリキだとかSTKと言われる人間はもっとアイドルの人間的側面に踏み込んでいる。(僕の主観では、ここまでくるとオタクという語の範疇を超えている気がする。)
僕自身の定義では、オタクは対象との「距離感」に対して敏感な存在である。「好きなヒトの「オタク」になってしまう」と恋愛についても表現してしまうことには、そこらへんへの感覚が乏しいように思われる。監督は結局ヲタ的な関係性よりも恋愛をとったのだ。その点において、小栗旬演じるオタクのアイドルへの徹底的にオタク的な愛し方を肯定した「キサラギ」の方が、オタクの実存にまで迫った点でオタクそのものを切り取れているのではないかと思う。まあ、「アリーナロマンス」は単にオタクを材料にした恋愛映画だということです。