アイドルとオタクのボーダーレス化

今さらなのだが、昨年12月に放送されたオタクを取り上げた番組が面白かった。

まず一点目として、ある程度生きたヲタ芸を見ることが出来たということ。つまり、オタクがテレビで取り上げられる場合、テレビ的な文法の中で、無害化された形に馴致されてしまうことも多いように思われるが、オタクの気持ち悪さとエネルギーと、という、バイアスがさほどかからないヲタ芸の姿を提供してくれているように見えたことだ。
ヲタ芸ヲタ芸を必要とするアイドルの現場でしっかりと息づいているということが感じられて非常に興味深い。ハローの現場で見たこともないような形のヲタ芸が開発され、定着していく。これは紛れもなく文化である。
二点目として、アイドルとオタクの境界線がいよいよ曖昧になっているという事態である。
アイドル桜井聖良とそのオタクの女の子を同じ視野の中に捉える時、どちらも見られる対象としての強度は持ち合わせていることを感じる。オタクの女の子の方がアイドルをやっていますと主張すればそれはそれで成り立つような、一方ではアイドルの側の立場の脆弱性、また一方ではうまくすればオタクがアイドルになれてしまう現状を映し出している。アイドルになりたい人間がたくさんいて、その中で一握りが「ちゃんとした」アイドルになれて、他の多くの人間がオタクになる、というような印象。つまり、アイドルとオタクが対照的な関係にあるのではなくて、アイドルもオタクも同じベクトルを持つ人間の異なる表現に過ぎないのではないかということを感じる。
上記の事態はまた、メトロポリちゃんVとそのオタクを見るときにも明らかになる。メトロポリちゃんのパフォーマンスが「撲殺」を含んでいる以上、撲る対象としてのオタクがいなければ彼女はアイドルとして成立しない。ありえないことだが、彼女がまっとうな歌番組に出演することになったとしても、やはりなぐられるオタクが共演する必要があるだろう。だからメトロポリちゃんVは一人でアイドルなのではない。これは、「全てのアイドルがそのオタク(ファン)と共同で創り上げていく現象なのだ」という一般的なアイドル論のことではない。普通のアイドルとしての表現が何か(テレビ・雑誌・ラジオ等)を媒介としてオタク(ファン)と関係を持つ、または生のステージにしてもアイドルとオタク(ファン)が分化された場が用意されるのに対して、メトロポリちゃんVの場合にはそのアイドル表現そのものにオタクが入り込んでいるのだ。
いずれにしても、このようにして物理的にも関係性としてもアイドルとオタクの距離が0に近づいていく現象を見るにつけ、アイドルという現象を例えば恋愛とのアナロジーでのみ一面的に捉えることはできまい、と思う。


…ところで、長島☆自演乙☆雄一郎はオタクなのか、アイドルなのか?