[映画]「おくりびと」鑑賞

題材の興味深さと、ハズレはないだろうということで見にいく。
郊外の大型ショッピングセンター内の映画館で。


あらすじ: 楽団の解散でチェロ奏者の夢をあきらめ、故郷の山形に帰ってきた大悟(本木雅弘)は好条件の求人広告を見つける。面接に向かうと社長の佐々木(山崎努)に即採用されるが、業務内容は遺体を棺に収める仕事。当初は戸惑っていた大悟だったが、さまざまな境遇の別れと向き合ううちに、納棺師の仕事に誇りを見いだしてゆく。(シネマトゥデイ


いい映画だった。重苦しいだけの映画ではなくて、そこここに笑いを散りばめながら、人が死ぬということと、それにどう向き合うかということを問うている。
死を扱う時に、そこに笑いが存在するということの意味を思う。象徴的なシーンは、棺桶の中の故人に対して女性達が接吻をして、故人の顔がキスマークだらけになる場面だ。遺族は笑い、そして泣くのだ。こうした場において、感情は単純なものではない。深い悲しみと、またそこから逆に、故人との幸せだった関係性も照射されて、ただマイナスともプラスとも言えない絶対値の大きな感情がそこにはある。儀礼というものは、その感情を呼び起こす場を提供するものなのだろうと思う。
納棺師となる大悟は、月50万という給料の提示をされるが、こういった職業がお金を沢山もらうのは当然だと改めて思う。周囲から冷たい視線を浴びせられ、「死人で金をもらっている」と言われ、常に死体と対峙しなければならないという精神的に厳しい職業である。そこで立ち現れてくる宗教観とは一体どのようなものだろうか、と思う。山崎努演じる社長は、仕事が終わるやむしゃむしゃとなんでも食べてしまう。人間が生き物を食って生きていて、いつか死ぬんだ、ということを達観している。そういった達観からにじみ出る優しさというものがある、と思う。
我々は全くもって「死」というものから遠ざけられてしまった。死という言葉ならいくらでも転がっているのだけれども、ぼくは「死」をよく知らない。血を知らないし、腐臭を知らないし、冷たくなった体をほとんど知らない。体感としてある「死」から生まれる優しさというものがあるのではないかと、ぼくは思う。
さて、これが映画という商業作品である以上、これを娯楽として消費することは間違いでないにせよ、ぼくは何かをそこから学びたいとは思っている。ところが、映画の内容とは関係のないところで、何かを試すような出来事が起きてしまった。上映も中盤を過ぎ、観客みなが映画にのめりこんでいる時。客席中央付近に座っていた一人の客がよたよたと通路を上がったり下がったりしている。そしてぼくのそばの席の客にしゃべりかけているのだが、どうやら老人の客がトイレに行きたいらしく、どこから外へ出ればよいのか、暗い客席の中を惑っていたのだ。映画は面白いところで、多くの客が、その客に興を削がれることを迷惑がっていたことだろうと思う(もちろんぼくも)。ようやく出口を見つけた老人はロビーへと至る暗い階段を降りていき、視界から消えていった、と思った途端、倒れる音と共にうめき声が聞こえたのだった。近くの客は、その方向を振り返ったが、誰かが助けに行ったようには見えなかった。ぼくはと言えば、ほんの気持ちだけ心配をしたが、映画館のスタッフが介助するだろうと、そのまま鑑賞を続けた。多分その後は、大事には至らず、だったのだと思う。
まあ、ここで映画の鑑賞中でも助けに行きましょう、ということが言いたいわけではない。キャパ数百人のスクリーンなのだから、映画館のスタッフを配置させて、老人がトイレに行きたい時にすぐに介添えできるようにしておくべきだとは思う。だけれども、その出来事でやはり如実に示されてしまうのは、我々は徹底してきれいな社会の中で生きることに慣れていて、スクリーン上でドラマが展開されているときに、スクリーン外のことには極力気を遣いたくないし、気を遣わなくてよい環境であるべきだ、という前提を当たり前のものとしているということだ。ぼくはその瞬間はっきりと、転んだ老人よりも映画の展開の方が重要だったのだ。
これだけが原因だとは思わないけれど、やはりお金を払って映画を見ているのだから、映画を楽しませてくれ、という感情もまた間違いなくある。お金を払うことで、自分が「お客さん」になるということ。それにどうしてもあぐらをかいてしまうという事態。ぼくらは主体的に何かを選択して、それに金を払っているはずなのだが、金を払った途端、受動的にサービスを受けるだけの思考停止状態に陥ってしまうのだろうか。それがなんとも恐ろしかった。
もし同じことがまたあって、ぼくがその近くにいたら、どうするかは何とも自信がない。とりあえずぼくが教訓としたいのは、映画を鑑賞したとき、それを映画でのみ完結してしまう娯楽として消費するだけではなくて、映画の外でどう振る舞うかの指針として学んでいく主体性を確保したいということだ。それは、常に傷つかず痛みを知らない傍観者(やゲームのプレイヤー)であるのではなく、物語内のキャラクターとしてもこの世の中で動けるかということだ。
そんなわけで、映画の内からも、外からも、いろんなことを考えさせられた。なんだか、ちゃんと生きなきゃ、と、久しぶりに思った。