なっきぃの若さと豊齢線

どあっぷで早速PVがあげられているけれども、しかしこの曲、ヲタ以外は聴くのかね。
そもそもロビケロを誰が見ているのか。


アテナ&ロビケロッツって、へんだなあ。
キラキラしているんだろうけど、危い感じがする。
なんか、ミニモニ。のにせものみたい、というと失礼だろうか。
明らかにミニモニ。よりは見劣りがする、と書いてしまうが、逆に言えばミニモニ。は人気が出すぎて「ヲタのためのもの」ではなくなってしまったのであれば、ロビケロッツこそヲタ的にはおいしい、のだろうか。
背景がずっと同じという安っぽさと、かわいいのかかわいくないのか分からない4人、と書くとまずいのか。しかし僕は一推しのなっきぃをすらそう言いたいのだ。完全な美とか、超絶かわいい、とかじゃなくて、確かにかわいいんだけど、ん、でもかわいいのかなぁ、くらいがいい。光井なんかまさにそういう魅力じゃないのか?僕は光井にかわいい、という言葉を注釈無しで使うことが出来ない。ガキさんもだいぶキラキラしてきたけど、昔の面影を重ね合わせるとき、ただかわいいとは言えない。岡井に至っては、よく分かりません。キラキラしてるんだけど性別がよく分からん、これは辻の後継者だから。
で、なっきぃの歳がよく分からなくなる。年齢相応にリボンをつけているのかどうか判断できなくなる。それは端的には、笑ったときにできる唇の端と頬の間の境界線のせいなのだ。今調べて見たらそのしわのことを「ほうれい線(豊齢線)」というらしい。「子鼻の横から口角に向かって入る八の字のしわ」のことですな。これがなっきぃは濃く出てしまう。それが老け顔に見えることがある原因なのだ。でもって、それも全部ひっくるめてLOVEなのだ。それがあっての危さも含めて、なっきぃが愛しい。笑ったときにかわいさと老け顔のせめぎあいが見られるなんて、僕は複雑な気持ちに見舞われてしまう。そういうほんとに些細などうでもいいところでの矛盾が、僕にとっての操作不可能性・解釈不可能性となって、僕の領域を超越した神聖性として立ち現れるんだろうなあと思う。僕は自分が分かったと思うものは好きにならないのだ。多分にこれは一般的な恋愛感情にも当てはまることだと思うが、未知が超越性となって現れ、人はそれに惹かれるのだ。だから僕はなっきぃが僕にとって分からないままであることを望んでいる。分からないままであれば、僕はそれに惹かれてできる限りの言葉を紡ぎながら彼女に近づこうとするという能動性(自由)を発揮できるし、一方で、それでも自分の小宇宙の限界を感じ、超越した存在にひれ伏すしかない受動性も持ち合わせるだろう。そういうバランスのもとで人は生きているのだと思う。
ちなみにののたんは、去年までははっきり分からない状態だったけれども、少し人間であるような気がしてしまって、超越性が衰退し気味です(でもまだ大丈夫)。