亜依撮る

加護ヲタさんがさまざまに語る中で、ひとつ重要な問題があったと思うのです。
『復帰はしてほしいが、それを本人が望んでいるのだろうか?復帰してほしいと思うこと自体は「正しい」ことなのか?』、という問いです。ようやく公に、加護自身が復帰を望んでいることが明らかになって、加護ヲタは一安心したのだけれど、こういう問題は日々ヲタが大なり小なり抱えている。アイドルというのは超越的な存在で、神のようですらある。そんなアイドルに「こうしてほしい」「こうすべきだ」と考えることは、その超越性を剥ぐ行為ではあるわけです。そんな、こちらからアイドルを操作していくような考え方はどうなのか、ってのは興味深い。(加護の件の場合、そもそも謹慎中の加護を「アイドル」扱いしていいのかという問題も同時にあるが、でも僕らは加護に対して「対アイドル」としてしかコミュニケーションできない。)
例えば、僕はハロショの辻写真を全ては買わない。より「辻性」の高い写真のみを選んでいる。自分の考える辻像に合致するもののみ買ってしまう。そんな判断をしている以上、辻は不完全な存在、ということになってしまいそうである。あるいは、僕は辻の出演するテレビ番組をかなりしぼって見ているが、これもまた不敬ではないのか?
しかし、では逆に、辻であればなんでもいい、アイドルであればなんでもいい、全て買い、全て見、全て聞き…というのがいいのかと言えば、やはりそうではない。最近のヤンジャンの「ライアーゲーム」で書いてあったけれども、信じて疑わないというのは、それ以上知ろうとしないことでそれは無関心ということだ、と。対象に対する批判精神を失わずに対象を愛していけるかどうか、ってとこなんだろうね。批判精神をもってしても、参っちゃうようだったらひれ伏そうじゃないか、「ののたんは奇跡」って。でも、それもいっつも言ってちゃだめなんだ、多分。
http://d.hatena.ne.jp/ai_shigemi/20070205(ai_shigemiさん)が示唆的だったのです。
『……無条件、無批判に対象から与えられるものを享受してる人は間違っていると思います。それは宗教です。あなたが信者でいたいならばそれで良いでしょう。そこには堕落があるのみです。アイドルというのはそうした方向に埋没して行きがちですが、それを変える力があるという誇りを一人一人が持っていたいものです。不確定性原理の見ること自体が対象に影響を与えてしまうという考えはそっくりそのまま僕達とハロプロの関係性を示しているとつくづく思います。』


宗教が堕落かは措くとして、ヲタは信じることと考えること(疑うこと)を両方バランスよくすべきだ。疑うという行為は、対象の超越性を剥ぐ行為ではあるのだけど、一方信じて疑わないという行為も、その対象がどのようであるかということに無関心であるという点において、「それであることの絶対性」は失われている。「のんちゃんはのんちゃんだからっ!!」と固有名にたよっても、それが何を指示できているのか心許ない。
…だから愛は不可能なのか。