愛・まいみぃ

サンシャインシティの4階広場に上がった瞬間、予想外にヲタが溢れているのでどうしたことか、と思ったら、ハロヲタじゃなかった。持ってるものが、写真じゃない。絵だ。ありえない髪の色の女の子だ。あー、すぐとなりで同人誌即売会ですか。あー、アニヲタ人口の多さよ。と同時に、キモイ。アニヲタキモイ。キモイよ、ハロヲタ同様。やっぱり、人の振り見て我が振りなおせ、ですな。なおす気ないけど。
展示ホールAをこそこそすりぬけて、エスカレーターでひとつ次元を上がったらそこはサンシャイン劇場。しかしね、劇場の前が仏壇展示会ですよこれが。三次元アイドルは死にましたか。いいえ死にませんよ。誰も仏壇なんか見やしませんよ。死ぬ前に死んだ後のことを考える愚かさよ。


書きたいことがたくさんですが、今日のところはとりあえず感情にまかせて書いておきます。
℃-uteはキュートであり、キュート=かわいいであるからして、℃-uteはかわいいのである。そんなのは同語反復であって確認すべきことではない。だけれども言語的に確認できることを知覚的に確認しなおすこともまた重要である。舞美かわいい。ナッキーかわいい。まいまいかわいい。愛理や栞菜ですらかわいい。岡井は、辻っぽい。「あんた九九もできないの」と言われる岡井は辻である。ん、あと誰か忘れてる。
「箸が転んでもおかしい年頃」とはよく言うが、それってのは、彼女にとって世界全体が肯定的に現れているということに他ならないのだろう。℃-uteはまさにその通り、存在していること自体を楽しんでいるように見える。個々の出来事がどうだ、じゃなくて、「人生」ってすばらしい、という感覚。それが我々に対しても与えられる。アイドルは、まず内容を問われる前にその現れにおいてものを言う。キラキラしてる。
今日は撮影が入ってたから1列がない。2列目が最前だ。最前の左寄りで見ていた。まいまいの自由人の動きを見ていた。ペットボトルにマジックで好き勝手に書いていく姿を見てた。岡井と萩原ってば、辻加護としか思わせないじゃれあいぶりじゃないか。ライブではナッキーのことを見ていた。ナッキーは僕のことを見た。だからどーした。うれしいじゃねーか、まぎれもなく。舞美の笑顔に僕の結界が決壊しそうになる。胸の中でそぞろ虫がうごめきますよ。なんかわくわくするような、ときめくような、落ち着かないような。僕の舞美への思いは擬似恋愛感覚に限りなく近い気がしている。「萌え」とは違うような。「萌え」だったらナッキーとかまいまいのほうが。僕は美しいものとは距離をおきたがる。昔からそうだ。美しいものはショーケースにでも入って人形然としてつんとおすまししていればいいよ。でも舞美の笑顔は過剰だ。飲み込まれるよ。だまされるよ。だまされてもいいよ。いやだましてない。舞美はまっすぐだからヲタを騙したりしないよ。
それにしてもだ、この感覚はなんだろう。なんにしても、僕は不可能なものを感覚しているしているような気がする。例えば、絶対に到達しえない対象を愛でている気もするし、自分になかったはずの青春時代を思い出している気もする。
高揚感。死んでもいーやと思えるくらいの幸福感。絶対死にたくない。